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建国記念の日と神武天皇・新たな視点で謎に迫る

明後日は、建国記念の日です。
ではそもそも建国記念の日とは、いったい何なのでしょうか?

これは、日本神話における初代神武天皇が、奈良の橿原宮で即位した日とされています。
ただし、神話上の神武天皇は紀元前711年に生まれ、紀元前585年に127歳で亡くなったとされますから、その年齢だけ考えても単純な史実とは考えられていません。


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(ウィキペディアより)


しかし、邪馬台国東遷を反映している神話だと考える説などもあり、いったいどこまでが事実でどこまでがフィクションなのか、それは謎のままです。

というわけで、神武東征については様々な説があるわけですが、このブログでよく登場する「神体山」や「巨石・磐座信仰」という、最も古い伝統信仰を切り口に再検討するとどうなるのか。

本日は、それをテーマとさせていただきます。


① 神武天皇(彦火火出見)はなぜ南九州に住んでいたのか?

それは、神々の住む高天原にいた邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受け、葦原の中つ国を治めるために日向の高千穂峰へ降臨したからです。

これは、宮崎県と鹿児島県の県境に位置する、霧島連山の名峰『高千穂峰』です。


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均整のとれた、大変美しい山容です。
神体山というと三角形の山を想像しがちですが、二上山型の双耳峰もよくあります。左右対称に近い美しい山が、神様が降臨する神体山の基本条件ですから、霧島高千穂が降臨地の有力な比定地であることに納得。

ところが、祭祀場である中腹の高千穂河原まで行くと、まったく違う姿を見せます。


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見事な変身ぶりで、何とも美しい左右対称形なのです。

これが祭祀場です。


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壮大な神話の舞台としてふさわしい、美しき峰ですね。

なお、もうひとつの比定地である宮崎県の高千穂地方にも、畏怖感あふれる美しい景色があちこちにあります。


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伝統神事。


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そしてこちらにも、小規模ですが天香具山など均整がとれた美しい山があります。
やはり邇邇藝命の天孫降臨は、均整のとれた美しい神体山や、奇しき岩などの磐座に神が来臨するという、古代日本の原始信仰の上に成り立っていることが分かります。



② 神武天皇はどこから出発したのか? そしてそこには何があるのか?

あまり重要視されていませんが、邇邇藝命が高天原を出発する時、記紀神話は大変重要なことを記しています。

古事記では
「天の石位(あまのいわくら)を離れ・・・」と記され、
日本書紀では
「天磐座(あまのいわくら)を離れ・・・」と記しているのです。

古来、日本の神様は「時を定めて去来する」存在でした。神様が神社の本殿という建物に常在するという観念は、比較的新しいものです。そして「磐座」とは、天上や海の彼方、あるいは高山から神霊が依りつく場所とされますが、出発点である高天原においても、やはり磐座が出てくるわけです。

考えてみれば、私たちが旅行や出張をする場合、東京駅から大阪駅、成田空港からロンドン・ヒースロー空港というように、出発点も到着点も必ず同種のターミナルを経由します。
おそらく神々も、これと同じような発想で考えられていたようです。磐座は、いわば古代信仰におけるターミナルなのです。

神武天皇(彦火火出見)は、
「天照大神の子が高千穂に降り立って179万2千470年余りたったのに、まだ自分たちは西のはずれにいる。全土を制覇して大和を都にしよう。」
と考え、東征に踏み切ります。神武天皇は、その名が示すように、神と人間の間に位置する存在です。
ひょっとすると、邇邇藝命と同じように、神武天皇もまた磐座や神体山というターミナルを通過する祭祀的構造の中にいるのではないか・・・

この観点から見て大変重要だと思う場所は、神武出航伝説のある、宮崎県の美々津です。


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ウィキペディア「美々津」には、こう書かれます。

伝承によれば、神武天皇の出航日は旧暦8月1日である。(日本書紀によれば旧暦10月5日である)

神武天皇はこの日の昼に出航の予定だったが、風向きが変わったため早朝に繰り上げ、「起きよ、起きよ」と家々を起こして回った。このことから、旧暦8月1日には起きよ祭りが開かれる。時間がなかったので着物のほつれに気づいても直す暇がなく、立ったまま縫わせた。そのためこの地を「立縫いの里」と呼ぶ。住人たちは出航に合わせて餅を作る予定をしていたが、急遽、小豆と餅米を一緒について渡した。これを「お船出団子」と言い、今に至るまで美々津の名物となっている。

立磐神社には、「神武天皇御腰懸磐」がある。神武天皇が出航の際にこの岩に腰掛け指揮したとされ、社名の「立磐」もこれに由来する。神武天皇と航海神の住吉三神を祭神とする。


これが立磐神社の「神武天皇御腰懸磐」です。


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そもそもこの立磐神社は、美々津出航にあたり、航海の安全を祈念して海上守護神である底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱を奉斎したことにちなみ、景行天皇12年(82)に創祀されたと伝えられています。

しかし、腰懸磐だけではありません。立磐神社の本殿背後には、異様な磐座がありました。


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まるで岩の柱を立てたような、不思議な形状の磐座です。周囲にこのような岩は全くなく、重要な神の座として遥か古代から祀られているのかもしれません。


さらに、七つバエと呼ばれるこの岩礁。


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神武天皇の船は、七ツバエと一ツ神の間を通って旅立ち、二度と戻ってこなかったことから、今でも漁に出るときはここを通らない風習が残っています。タブーを伴う聖地というわけですね。゜
なお、七ツバエのひとつである竜神礁には、大海の守護神である闇淤迦美神を祭神とする竜神社が祀られています。


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つまり美々津には、神秘的な磐座と、島嶼信仰の岩礁があったわけです。
やはり神武天皇も、磐座や神体山等をターミナルとして通過する「神」的存在だったのでしょうか。
そのことは、ヤマト王権の中で神武は、実在の人物という位置づけではなかったという結論を導く、大変重要なことかもしれません。


③ 神武天皇はどこを通ったのか? そしてそこには何があるのか?

神武天皇は、日向国から筑紫国、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え、大和国を征して畝傍山の東南橿原の地に都を開きます。

その東征の途中には、明らかに古代の巨石・磐座信仰の地がクローズアップされています。
たとえば、広島県福山市の山中に立つ、「立岩祭祀遺跡」と呼ばれる不思議な石組み。


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伝説では神武天皇が、安芸の埃宮から海路藁江に入り、この岩田山に宮を置いたと伝わります。
立岩の高さは約4m、岩盤の上に舟形の巨石二個を置き、その上に円筒状の巨岩が乗っています。さらに背後には、環状の列石があるとされています。
かつて皇紀2600年記念として、地元の金江と柳津が吉備高島宮顕彰会を組織し、村議会で予算を付けてこの立岩を整備しました。周囲に矢来と注連縄をめぐらせて神楽を奉納するなど、当時の広島県知事も視察に訪れたそうです。


次は、神武東征の聖蹟伝説地のひとつ、岡山県笠岡市の高島です。
この島の人々は、古来ここが吉備の高島宮だったと信じています。そしてそれにふさわしい神秘的な遺跡や信仰跡がたくさん現存しているのです。


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不思議な巨石のシンボルが、これでした。


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横から。


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背後から。


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対岸の神島神社には、神武天皇の石像が立ちます。


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④ 神武天皇はどこに着いたのか? そしてそこには何があるのか?

神武軍は、現在の大阪湾に上陸します。しかしそこには、長髄彦という最強の敵がいて、孔舎衛坂(くさえのさか)で激戦となりました。そして兄の五瀬命が流れ矢にあたって重傷を負うなど苦戦し、退却します。

東大阪市立の孔舎衛中学校の北側には春日神社があり、境内の一角に「神武天皇御東征孔舎衛坂古戦場」の碑が建てられていました。この碑は紀元2600年(昭和15年)の建立です。


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この境内には、美々津の立磐神社同様、やはり大きな磐座がありました。


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そして、閉ざされた本殿横をのぞき込むと、奇妙な岩が・・・。


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これは「おきよ石」なのだそうです。

そういえば、美々津ではこんな伝説と行事がありました。

・・・・神武天皇はこの日の昼に出航の予定だったが、風向きが変わったため早朝に繰り上げ、「起きよ、起きよ」と家々を起こして回った。このことから、旧暦8月1日にはおきよ祭りが開かれる・・・

なぜ「おきよ」という同じ発音の岩が、東大阪市の神社にあるのか?

実は東大阪市など生駒山東麓には、異様とも思える古い信仰文化がぎっしりと残っていました。なんとも謎めいた地域なのです。
いったいこれらは、神武天皇とどうかかわるのか?

つづく

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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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