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伊勢内宮・伊弉諾神宮・海神神社 そして驚異の縄文丸木船

長崎県対馬市峰町木坂にある海神神社の続編です。

伊勢神宮(内宮)と伊弉諾神宮(淡路島)が北緯34度 27分 23秒の東西線上に位置し、その遙か西には、対馬の海神神社があることを、伊弉諾神宮境内の地図石板が示していました。

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伊弉諾神宮という権威ある古社が公表しているのですから、神社本庁公認の神道理論なのかもしれません。

しかし、対馬の淋しい地域に鎮座する海神神社を、実際に訪ねた方の割合は、極めて少数だと思います。
そこで、伊勢内宮と伊弉諾神宮に並ぶお社とはどんなところなのか、前回は途中まで紹介しました。


  ☆


海際の平地にある一の鳥居から奥へと進み、長い石段を上ります。


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途中に、いくつかの磐座と思しき巨石群がありました。

この岩などは、不自然に階段の横に立っています。


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さらに上へと登ると、鳥居の向こうに中腹の平地が広がり、社殿が鎮座していました。


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驚いたのは、広い拝殿です。
なぜこんな田舎の山中にと思うような、立派な建物なのです。


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社殿の造営は、古くは、対馬国から太宰府に納める税が充てられ、不足の分は神領の民戸の手で補われていたが、遷座の時は、特別に太宰府より御料が進められたと記録にあるそうです。
さすがに一の宮、対馬の国をあげての造営ですね。

境内案内に「神霊が鎮まる所」と記された背後の木坂山(伊豆山)は、千古斧を入れない原生林で、現在は「野鳥の森」となっています。
恐らくは、まだまだいろいろな信仰遺跡が山中に隠れているでしょうね。


それにしても、これだけ立派な社殿がありながら、私たち二人以外には誰一人境内にいません。なんとも不思議な感覚です。
深い山中で道に迷っていたら、思いもかけない大きな屋敷に出会うが、だれも家人がいない・・・・・こんな隠れ里の民話がありますが、まさにその雰囲気なのです。


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時間が静止しているような、あるいは原生林から誰かがじっと見ているような、表現しがたい神聖感、畏怖感が漂います。


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  ☆

海神神社の主祭神は豊玉姫(トヨタマヒメ)です。
初代神武天皇の祖母として知られる神様で、竜宮に住まいする海神(わたつみ)の娘とされます。

社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を上県郡峰町に納めたことに由来するといわれます。旗は後に現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称されました。また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの伝承もあるそうです。

さて、赤字にした「上県郡峰町」には、峰町歴史民俗資料館がありました。
考古資料としては全国に2例しかなく、しかも縄文時代の遺跡からはここだけの 鹿笛 (しかぶえ) など、貴重な資料が展示されています。

とりわけ興味深いのは貝輪の産地でした。
なんと琉球方面と蝦夷方面の南北の海でしか獲れない貝を材料にした貝輪が発掘されているのです。
縄文時代に、対馬と蝦夷の交流があったとは!

北方文化との関係について質問しようと、事務室のようなところへ行ったのですが、担当の方がおられずわからないということでした。さらに、館内の史料は撮影禁止。
というわけで残念ながら、貴重な縄文時代の史料をブログでお見せすることはできませんでした。


海神神社の境内はもちろん、神社の周囲数㎞は、まったく人を見かけることはありませんでした。いわゆる過疎地なのでしょう。
しかし、縄文時代に東北・北海道と交流があったなら、この周辺の海辺はターミナル港のひとつだったのでしょう。
それにしても、丸木舟で日本海の荒波を何百キロも移動するなんて、ものすごいことのように思えます。しかし、文章だけでは実感がありません。

なんとか、縄文丸木舟の写真を、ブログ読者の皆様にお見せしたい・・・・
というわけで、撮影できる丸木舟を求めて、京都府の舞鶴まで行ってきました(^_^)/~


  ☆


京都府舞鶴市千歳の浦入遺跡から、最古級で最大級の縄文丸木舟が発見されています。

その写真を撮って見ていただこうと、まずはネットで調べ、「舞鶴ふるさと発見館(舞鶴市郷土資料館)」に行きました。
考古学的資料は充実していたのですが、丸木舟はありません。職員の方に聞いて、今度は舞鶴市役所に隣接する「市政記念館」を訪ねると、赤レンガのレトロモダンな建物の中に、めざす丸木舟が展示されていました。


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出土したのは4.4mの大きさですが、実際の全長は8m以上あったようです。
最大級とはいえ、8~10mの大きさで外洋に漕ぎ出すのは、よほど知識と経験があったのでしょうね。

縄文時代の船着き場も再現されています。


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これは必要最小限なのでしょう。
実際には、港らしいもっといろいろな施設があったはずです。

特に驚いたのは、市教育委員会が調査していた丸木舟出土地点の約500m北東の遺跡からは、縄文時代前期~後期の大量の土器や石器が出土したほか、北陸地方の特徴を示す土器や二上山のサヌカイト(奈良県)、さらに隠岐島(島根県)の黒曜石の固まりも発見されていたのです。

それどころか、富山湾周辺の蛇紋岩を加工したけつ状耳飾りは、約6300年前の火山灰層(アカホヤ火山灰)から出土したそうです。
同じ形の耳飾りは、中国大陸をはじめ日本各地でも出土しています。
また、遠くシベリアとの交易があった痕跡も確認されていて、縄文時代前期における東アジア地域の幅広い交流を示すものとして、内外の考古学者からも注目されているのだとか。

縄文時代に対する古い常識から見れば、信じられない話でしょうね。
しかし、三内丸山の遺跡を見てからは、多少のことでは驚かなくなりました。「縄文恐るべし」です。


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隠岐に中国大陸にシベリアと、驚くべき広範囲で縄文交易があったなら、対馬とも交流があったとして不思議はありません。
ひょっとするとこの丸木舟は、対馬の海神神社の沖を航行してたかもしれませんね。

縄文時代の海人たちが、舞鶴の東、若狭湾東部に上陸すれば、琵琶湖まで最短20㎞。
琵琶湖にも縄文時代の丸木舟はたくさん発見されています。

琵琶湖で丸木舟に乗り、最南端の大津市まで行けば、瀬田川から淀川へと続いて、その先は大阪湾。
もう淡路島は目の前です。

琵琶湖の沿岸、多賀には多賀大社があり、淡路島の伊弉諾神宮同様、イザナギ・イザナミを祀ります。

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『古事記』の真福寺本には
「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」
との記述があり、淡路島にも近江にもなぜか同じような伝承と地名とお社があるのは不思議です。
いったいどちらがホンモノなのでしょう。

しかし、縄文時代から続く日本海・琵琶湖・淀川ルートの文化移動を前提にするなら、いつの時代かに海人の移住による神の遷座があり、どちらもイザナミ・イザナギ信仰の根拠地であったとする方がすっきりするのではないでしょうか?

そしてその流れの中で、対馬のアマテル信仰・天道信仰が、土着の太陽神として伊勢地方に浸透していったのが、のちに大和王権の天照大神と変化していったのではないか。

例によって妄想レベルですが、日本海沿岸の優れた縄文文化を見るとき、それが畿内にどう浸透していったかを考えるのもまた、歴史の楽しみ方のひとつだと思います。


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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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