fc2ブログ

記事一覧

絵島と平清盛と人柱の謎

淡路市の大和島が「神霊の島」として恐れられていたとは全く知らないまま、岩屋漁港の反対側に見える絵島に向かいました。

ターミナル港の横で観光客も多く、大和島と違ってにぎやかな印象です。


DSCN6459_convert_20190625085854.jpg


DSCN6460_convert_20190625090047.jpg


IMG_3347_convert_20190625090852.jpg


大和島を遠くから見ると、方角によっては普通の島なのですが、この絵島はどこから見ても見たまんまの不思議な容貌でした。

橋の向こうは立ち入り禁止です。


IMG_3341_convert_20190625090749.jpg


陸側からいろいろ見て回ります。


IMG_3338_convert_20190625090648.jpg


IMG_3330_convert_20190625090321.jpg


IMG_3321_convert_20190625090227.jpg


IMG_3318_convert_20190625090133.jpg


IMG_3335_convert_20190625090456.jpg


IMG_3337_convert_20190625090549.jpg


よく見ると、岩棚にベンチがありますから、やはり昔は自由に入れたのですね。


IMG_3322.jpg


さらに頂上には、鳥居と石柱のような人工物が見えます。
何でしょう、これ?


IMG_3351_convert_20190625090944.jpg


IMG_4970_convert_20190625091237.jpg


調べてみると、こんな歴史がありました。

12世紀、平清盛は宋(中国)との貿易のために大輪田の泊り(現在の神戸港の西端)を安全な港として開港したいと考えていました。そのため、沖に人工島を作って港を守ることにしましたが、激しい潮流や風のせいで何度も築港用の護岸が流されます。

もう人柱を立てるしかないと人を集め出した時、可愛がっていた小姓の松王丸が「自分が人柱になるので、民衆を解放してほしい」と申し出ます。そして結局は松王丸を人柱に建て、難工事が成功しました。

松王丸が生きていた時、清盛はよく一緒にこの島の上の出る月を眺めいつくしんでいたため、思い出の地の最高地点に松王丸を祀ったということです。


この話が歴史的事実そのままなのか、脚色が結構大きいのか、それはわかりません。ただ、悪人のいない悲劇のストーリーとして、きれいにまとめられすぎの感があります。
さらに、人柱の慰霊碑なら、現地の大輪田の泊り(神戸)付近に建てるべきで、どうも不自然です。
なにか謎があるように思えるのですが、どうでしょう?

  ☆

明石や神戸などから淡路島に来航した船が、現在の岩屋漁港に着いたとしたら、港の入口の左右に大和島と絵島を見て入港することになります。
およそ他所でみたことのない奇怪な岩の島が、門のように、あるいは狛犬のように両側に存在するのですから、二つの島は対になっていた可能性があります。それも、共に港の守り神であったのではなかったのでしょうか?
(巨大な磐座や立石群の手前に、二つの門のような岩が配置されている場所がしばしばみられることは、以前記事にしています。)

そして、古くからの港の守り神である二つの島と、松王丸の死は、ひょっとすると深いところで繋がっているのではないのでしょうか?


  ☆


東洋経済オンラインに、神戸女学院大学名誉教授の内田 樹氏が書かれた

令和日本は「海」と「陸」のどちらを志向するのか
国運の潮目は「海洋的」か「島国的」かで変わる


という記事があります。(今年の5月1日付)

すこしその中身をお借りしたいと思います。

源氏は東国内陸に拠点を展開し、馬を牧し、騎乗と騎射の妙技によって知られた職能民である。平家の一元支配の下で日本が海洋王国となり、航海術に優れたものたちに優先的に政治的・経済的資源が分配されるという未来は源氏にとっては受け入れがたいものであった。

『平家物語』における源平の戦いが図像的には「沖には平家の船、陸には源氏の騎馬武者」という対比的な図像になっているのは、それが海の民と陸の民のコスモロジカルな対決だったからである。




もう一つ、「歴史の豆知識」ブログ様の

歴史に見る「海の民」と「陸の民」の対立構造について

という記事も同じです。(2017.02.13)

平氏の総帥である平清盛は、博多に日本で初めて人工の港を築くという事績があり、また、内陸の平安京から、より交易がやりやすい福原という港街に都を移そうと試みもした。
そうすることで日宋交易をさらに盛んにし、やがては東シナ海や南シナ海にまたがる海上王国を築こうとまで考えていた。
この思想や行いに現れているように、平氏は海がもたらす力によって繁栄した一族で、まさに「海の民」であり、源氏とは対照的な存在だ。
平家物語は、海の民が陸の民に敗れていく過程を描いた物語なのだと言える



そう言えば、「KJ法」で有名な川喜田二郎氏(当時は東京工業大学名誉教授)は、文化人類学の視点から、
「源氏と平家の対立」は、戦前戦中の「帝国陸軍と帝国海軍の対立」にまでつながっている
と著書に書かれていました。昭和の昔の話です。

どうも秀吉は海、家康は陸というような対立軸が、日本の歴史にずっとあったという史観は確実に存在するようです。

「驕る平家は久しからず」で滅びたと考えるのは、皮相浅薄な見解なのかもしれないのですね(@_@;)


300px-DanNoUra[1]
(壇ノ浦の戦い ウィキペディアより)


東洋経済オンラインの記事に戻ります。
内田 樹氏は、こうも書かれています。

壇ノ浦で最終的に源氏は勝利を収めるわけだが、よく見るとわかるように、この最終的勝利をもたらしたのは、渡辺水軍、河野水軍、熊野水軍など平家に従わなかった海民たちの操船技術と、平家の海軍戦力の中心にいた阿波水軍の裏切りである。最終的に源平合戦の帰趨を決したのは艦船数と操船技術の巧拙だったのである。

つまり、平家の本当の敗因は、「平家の海軍戦力の中心にいた阿波水軍の裏切り」だというわけです。

  ☆

淡路島とは、阿波への道筋の意味だと言われます。
おそらく平清盛も、阿波と淡路の水軍勢力をしっかりと押さえておく必要を誰よりも感じていたでしょう。

清盛は、船で参詣する安芸の厳島神社を深く信仰し、『平家物語』には、清盛が夢枕で「厳島の宮を造営すれば、必ずや位階を極めるであろう」とのお告げを聞いたというエピソードが残されています。


2011_1101_161320-P1030224_201906250923025ab.jpg


ならば、清盛にとって阿波へと通じる淡路島の岩屋は重要です。
港を実効支配するとともに、岩屋港の入口に位置する2つの「聖なる島」を平家を守るシンボルとするために、信頼する小姓の霊を祀ったと考えることはできないでしょうか。

そして平家が滅亡してからは、その祭祀的意図も忘れられ、「恐ろしい神霊の島」や「悲劇の人柱の島」として人々に語られる存在に零落したのではないのか。

そう考えると、いろいろなことがすっきりします。

例によって妄想的推理なのですが、私にはそんな気がしてなりません。
IMG_3331_convert_20190625090405.jpg


取材とネタに苦労しておりますが、三つクリックしていただくと大変励みになります。
よろしくお願いいたします(^_^)/~
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

神社・仏閣ランキング

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

sazanamijiro

Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

フリーエリア