神武天皇の聖跡を訪ねて・岩神神社の超巨石
- 2018/12/04
- 14:53
いわゆる「神武東征」の中で、神武天皇が吉野周辺で出会う人々が、何とも不思議な記述で描かれています。
吉野についたとき、人がいて井戸の中から出てきた。その人は体が光って尻尾があった。天皇は「お前は何者か」と問われた。答えて「手前は国つ神で、名は井光(いひか)といいます」と。これは吉野の首部の先祖である。
さらに進むと、また尾のある人が岩をおしわけて出てきた。天皇は「お前は何者か」と問われた。「手前は、石押分(いわおしわく)の子です」という。これは吉野の国栖(くず)の先祖である。
≪日本書紀(上) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫 P.97≫
「体が光って尾のある人」とか「尾のある人が岩を押し分けて出てきた」とかは、まるで『ハリー・ポッター(Harry Potter)』や『ロード・オブ・ザ・リング(The Lord of the Rings)』などの映画の世界のようですね(*_*)
日本神話におけるこの描写は、いったい何を意味しているのか?
というわけで、神武天皇の足跡をたどるシリーズの第一回は、奈良県吉野郡吉野町矢治の岩神神社から。
ここは以前、「岩神神社・尾のある人々」という題で、三枚の写真をアップしたことがあります。今回は、改めて撮った写真で詳しくお伝えしたいと思います。
☆
まずは、石穗押別命を祭神とする、国道370号線沿い、吉野川に面した「岩神神社」の様子をご覧ください。

周囲の環境です。


駐車場は広々としています。

境内に入ります。




向かって右側奥には、巨石が累々としている場所があります。


ここは、半円形の配置にも見えます。一部の岩が脱落する前は、ストーンサークルだったかもしれません。

このすぐ横に、下から見ればかなり高い所にあると感じていた本殿が見えました。

斜め上に突き出したというか、根元がえぐられた岩盤の岩陰に本殿が鎮座しています。


この部分を見ると、明らかに岩陰祭祀といえるでしょう。
上を見上げると、庇のような部分が覆い被さります。


どうも、人工的に削ったようにも見えます。
連想したのは、佐世保市にある縄文早期の遺跡、岩下洞穴です。


これらは、岩石・岩盤の割れ目に水を通し、凍結時の膨張圧力で岩石を割る「凍結破砕作用」などを利用して、意図的に割ったような気がしてなりません。
さらに、向かって左側にも、見事な割れ目が見られます。


岩窟、岩屋、割れ目は、再生呪術などにかかわる神聖な場所です。
この巨大な岩塊の背後にも割れ目があり、これらのことが「岩を押し分けて出てくる」という記述と繋がるように思います。


☆
では、このあたりに住む「国栖」とは、どういう人々だったのか?
ウィキペディアにはこうあります。
・・・人となり淳朴で山の菓やカエルを食べたという。交通不便のため古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。その後国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を御贄(みにえ)に貢進し風俗歌を奉仕したようで、『延喜式』では宮廷の諸節会や大嘗祭において吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏することが例とされている。
私が昔から愛用する「神話伝説辞典」には、
古代に主として吉野に住んでいた異族。
とありました。

尾がある人種などはあり得ませんが、かなり独特のローカルカラー、いわば縄文文化的な生活基盤を持つ人々と、その伝統信仰だったのでしょう。
(続く)
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吉野についたとき、人がいて井戸の中から出てきた。その人は体が光って尻尾があった。天皇は「お前は何者か」と問われた。答えて「手前は国つ神で、名は井光(いひか)といいます」と。これは吉野の首部の先祖である。
さらに進むと、また尾のある人が岩をおしわけて出てきた。天皇は「お前は何者か」と問われた。「手前は、石押分(いわおしわく)の子です」という。これは吉野の国栖(くず)の先祖である。
≪日本書紀(上) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫 P.97≫
「体が光って尾のある人」とか「尾のある人が岩を押し分けて出てきた」とかは、まるで『ハリー・ポッター(Harry Potter)』や『ロード・オブ・ザ・リング(The Lord of the Rings)』などの映画の世界のようですね(*_*)
日本神話におけるこの描写は、いったい何を意味しているのか?
というわけで、神武天皇の足跡をたどるシリーズの第一回は、奈良県吉野郡吉野町矢治の岩神神社から。
ここは以前、「岩神神社・尾のある人々」という題で、三枚の写真をアップしたことがあります。今回は、改めて撮った写真で詳しくお伝えしたいと思います。
☆
まずは、石穗押別命を祭神とする、国道370号線沿い、吉野川に面した「岩神神社」の様子をご覧ください。

周囲の環境です。


駐車場は広々としています。

境内に入ります。




向かって右側奥には、巨石が累々としている場所があります。


ここは、半円形の配置にも見えます。一部の岩が脱落する前は、ストーンサークルだったかもしれません。

このすぐ横に、下から見ればかなり高い所にあると感じていた本殿が見えました。

斜め上に突き出したというか、根元がえぐられた岩盤の岩陰に本殿が鎮座しています。


この部分を見ると、明らかに岩陰祭祀といえるでしょう。
上を見上げると、庇のような部分が覆い被さります。


どうも、人工的に削ったようにも見えます。
連想したのは、佐世保市にある縄文早期の遺跡、岩下洞穴です。


これらは、岩石・岩盤の割れ目に水を通し、凍結時の膨張圧力で岩石を割る「凍結破砕作用」などを利用して、意図的に割ったような気がしてなりません。
さらに、向かって左側にも、見事な割れ目が見られます。


岩窟、岩屋、割れ目は、再生呪術などにかかわる神聖な場所です。
この巨大な岩塊の背後にも割れ目があり、これらのことが「岩を押し分けて出てくる」という記述と繋がるように思います。


☆
では、このあたりに住む「国栖」とは、どういう人々だったのか?
ウィキペディアにはこうあります。
・・・人となり淳朴で山の菓やカエルを食べたという。交通不便のため古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。その後国栖は栗・年魚(あゆ)などの産物を御贄(みにえ)に貢進し風俗歌を奉仕したようで、『延喜式』では宮廷の諸節会や大嘗祭において吉野国栖が御贄を献じ歌笛を奏することが例とされている。
私が昔から愛用する「神話伝説辞典」には、
古代に主として吉野に住んでいた異族。
とありました。

尾がある人種などはあり得ませんが、かなり独特のローカルカラー、いわば縄文文化的な生活基盤を持つ人々と、その伝統信仰だったのでしょう。
(続く)
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