岐尼神社・なぜここに天孫降臨神話があるのか?
- 2018/11/19
- 17:03
大阪府豊能郡能勢町森上に鎮座する「岐尼(きね)神社」です。



岐尼(きね)神社の驚くべき伝説
ここには、不思議な神話伝承があります。
社頭の由緒書にはこう書かれていました。

岐尼神社
当社は、旧来枳根庄内にあって、能勢町森上の地に鎮座し、『延喜式神名帳』能勢郡の条には『岐尼神社』と見える。
祭神は『天孫瓊々杵尊』、中臣氏の祖神である『天児屋根命』、大名草彦命の子『枳根命』と『源満仲』で、『岐尼・枳根・枳禰。杵宮』、或いは『杵大明神』と称していた。
『瓊々杵尊』といえば、天孫降臨の神話にある神であるが、ここにも天孫降臨の説話がある。
すなわち、岐尼神が南の小丘に降臨したもうたとき、土民は臼の上に杵を渡し、荒菰を敷いて迎えたという。『杵』、『杵尊』のひびきは社名の起因と考えられる。
つまり、祭神は天孫降臨神話(てんそんこうりんしんわ)の主役である『瓊々杵尊』で、この神社の名を負う祭神『岐尼神』自身も近くの『天神山』に降臨したというのです。
いったいこれはどういうことなのか?
本来、『瓊々杵尊』はこの神社(天神山)に降り立ったとする伝承があったものの、日本神話を覆しかねないという事の重大性を忖度して『岐尼神』としたのでしょうか。
たしかに『瓊々杵尊』の「杵」は、臼の上に「杵」を渡したという伝承や、そもそも「きね神社」という名称とも重なります。(ただし、『瓊々杵尊』表記は日本書紀。また「きね神社」は、「きに神社」とも発音)
それとも、この地のローカルな降臨伝承が、日本神話の天孫降臨神話にそっくりなため、主祭神をのちに『瓊々杵尊』としたものでしょうか。
社伝によれば、延暦元年(782)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また将軍家代々の御祈願所であったそうです。適当に作った伝説とは思えません。
いずれにしろ、大変重大な伝承をもつお社であることは間違いないでしょうね。
日本神話における天孫降臨神話とは何か?
天孫降臨とは、日本神話において、天孫の瓊々杵尊が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降ったことです。
瓊々杵尊は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命などの神々を連れて、高天原から地上へと向かいます。
その途中、猿田彦神の案内を受け、筑紫の日向(ひむか)の高千穂に降り立ちます。
これは、天皇家の統治権の由来を語る、日本神話の中でも最も重要な部分だと言えます。
ふたつの天孫降臨地
天孫降臨の地としては、九州南部の霧島連峰の一山である高千穂峰(宮崎県と鹿児島県の県境)と、宮崎県高千穂町の双方に伝承がありますが、よく知られるようにどちらの場所が正しいのか定説がありません。
こちらは霧島連峰の高千穂峰。



日本神話の舞台にふさわしい、雄大で美しい山です。
しかし、もう一方の宮崎県高千穂町でも、雄大な山はないものの、神話の地にふさわしい景観や文化が見られます。





ちなみにここらは西臼杵郡ですね。
このほかにも、鹿児島県南部には、天孫降臨地の古跡がいろいろありました。
例えば、宮ノ山の笠沙宮古跡。




いったい、どれが本物の天孫降臨地なのでしょうか?
神話学における「天孫降臨」とは?
実は、神話学的に見れば、天孫降臨は日本独自の神話ではありません。
朝鮮古代の檀君神話などにも共通点があり、ネットでは「日本の天孫降臨神話は韓国のパクリ」などという極論を言う人さえいるのです。
正しくは、朝鮮半島も日本も、ともに北方ユーラシア系の王権神話の影響を受けている、とすべきでしょうね。
岐尼神社の天神山を訪ねて
岐尼神社に戻ります。
どうしても行くべきところがありますね。
岐尼神が南の小丘に降臨したもうたとき、土民は臼の上に杵を渡し、荒菰を敷いて迎えた
という「天神山」です。
この山は、岐尼神社のほぼ真南に400mほど行った場所にある、小高い丘のようです。
ちょうど田畑や市街地がある盆地の真ん中に位置する、独立峰の丘という感じでしょうか。

登り口を探してこの丘を回っていると、真南に鳥居と石段が見えました。

いったいここには何があるのでしょうか。
その暗くて急な階段を上ります。

頂上付近には、平坦な場所がありました。
祠と小さな岩があります。



背後は、神が降臨した頂上部分でしょうね。
それに対する祭祀場所として、この平坦部が造られているようです。

背後の頂上に上っても、今では薮ばかりで、特に磐座など目立つものはありません。
祠の前の小さな岩だけが、磐座を思わせる存在なのですが、何の説明板もなく、果たして古代からあったものかどうかは不明。

臼と杵と荒菰が意味するものとは?
「土民は臼の上に杵を渡し、荒菰を敷いて迎えた」という祭祀状況にヒントはないか、少し考えてみます。
北方ユーラシアに広がる王権神話の一端が、この地に根付いたと考えるならば、
「何も知らないこの地の土民が、臼と杵と荒菰を適当に思い付きで持ち出して迎えた」
などという単純なものではないでしょう。
影響の大小はあっても、正規の日本神話と並列する王権神話かもしれません。きっと意味があるはずです。
まず「荒菰」について。
「菰」は「薦」とも書き、水辺に生えるイネ科の多年草マコモの古名で、それを粗く編んでつくったむしろのことです。
天皇や貴人が歩く時の道筋や、神事で祭神が遷御する通り道に敷くとされます。
春日大社の式年造替で仮殿の「移殿(うつしどの)」から本殿まで祭神が通る道に敷かれるものは「清薦(きよごも)」と呼ばれ、出雲大社の涼殿祭(すずみどのさい)では筵道に真菰が敷かれるのだとか。
フクロウの神社で知られる栃木県那須郡那珂川町の鷲子山上神社では、「三本杉祭」で午後6時〜6時30分、庭上に荒菰(あらこも)を敷き、提灯の明かりにて神職が奉仕御幣を立て祈り、氏子の作った小粒のもちを三本杉社に供えますとホームページに記されています。
また、大分県中津市の大貞八幡宮薦神社。
ここは三角池を御神体とし、池を内宮、神殿を外宮と称しています。宇佐神宮との関係が深く、宇佐行幸会の際に神輿に納める霊代の枕は三角池の真薦で作るのが習わしでした。
ご神体の三角池がこれです。



『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、養老4年(720)三度目の反乱を起こした日向・大隅の隼人に対し、中央政府の征討軍は豊前軍と共に鎮圧に向かったとされます。
その時、この三角池に自生している真薦で造った、枕状の八幡神の御験を乗せた神輿を奉じて鎮圧に向かったとされます。
宇佐宮の祢宜 大神諸男は三角池の前にて祈願をした処、池一面に波が湧きかえり雲の中から「我、昔(三角池に自生している)この薦を枕とし百王守護の誓を起こしき。百王守護とは凶賊を降伏すべきなり」とご宣託を頂くのだそうです。
これらの事例を見ると、宇佐八幡系では「荒菰」は極めて神聖な祭祀物なのです。
次は杵と臼。
『日本書紀』によれば、大碓命・小碓尊ら双子出生の際、天皇が怪しんで臼に向かって叫んだので、「碓(うす)」の名がついたとされます。
あの有名なヤマトタケルの誕生です。
生成の呪術として臼をつく舂女も存在しました。
杵と言えば、時代は下りますが、弘法大師が布教と護身を兼ねて持っていたのが独鈷杵(とっこしょ)です。
その独鈷杵はインドから中国に伝わる間に装飾が施され、密教的呪術の意味合いをもち、修験密教僧を現す為の法具となったそうですが、杵と関係があるのは事実。
また聖徳太子の十七条憲法には、有名な
「以和為貴(和を以て貴しと為す)」
がありますが、実はこれには
「無忤為宗忤(さからう無きを宗と為せ)」
というフレーズが続きます。
この場合の「忤」はもともと「杵(きね)」の形をした呪具の象形文字で、その呪具を使って「(敵の)悪い呪術から身を守る、抵抗する、逆らう」というのがその語源だそうです。
☆
上気の理屈が、実際に岐尼神社と関係があったかどうかはわかりません。
しかし、いかにローカルでも天孫降臨神話は、特に外部との関連がない普通の農民が、いきなり考えつくような話ではないでしょう。
この地に、天孫降臨神話と関わる人たちがいたのか、あるいは北方ユーラシアの神話文化の系統をひく人たちが来たのか、何らかの要素はあったと思います。
いまのところ、それ以上は言えませんが、おそらくは日本各地にはもっと他にも、かつてミニ天孫降臨伝承があったのではと、そんな風に思います。
家計と休日予定を何とかやり繰りし、各地を回っております。ネタも少なくなり、先行きが不安ですが、それぞれクリックしていただくとネタ集めの励みになりますのでよろしくお願いいたします。

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岐尼(きね)神社の驚くべき伝説
ここには、不思議な神話伝承があります。
社頭の由緒書にはこう書かれていました。

岐尼神社
当社は、旧来枳根庄内にあって、能勢町森上の地に鎮座し、『延喜式神名帳』能勢郡の条には『岐尼神社』と見える。
祭神は『天孫瓊々杵尊』、中臣氏の祖神である『天児屋根命』、大名草彦命の子『枳根命』と『源満仲』で、『岐尼・枳根・枳禰。杵宮』、或いは『杵大明神』と称していた。
『瓊々杵尊』といえば、天孫降臨の神話にある神であるが、ここにも天孫降臨の説話がある。
すなわち、岐尼神が南の小丘に降臨したもうたとき、土民は臼の上に杵を渡し、荒菰を敷いて迎えたという。『杵』、『杵尊』のひびきは社名の起因と考えられる。
つまり、祭神は天孫降臨神話(てんそんこうりんしんわ)の主役である『瓊々杵尊』で、この神社の名を負う祭神『岐尼神』自身も近くの『天神山』に降臨したというのです。
いったいこれはどういうことなのか?
本来、『瓊々杵尊』はこの神社(天神山)に降り立ったとする伝承があったものの、日本神話を覆しかねないという事の重大性を忖度して『岐尼神』としたのでしょうか。
たしかに『瓊々杵尊』の「杵」は、臼の上に「杵」を渡したという伝承や、そもそも「きね神社」という名称とも重なります。(ただし、『瓊々杵尊』表記は日本書紀。また「きね神社」は、「きに神社」とも発音)
それとも、この地のローカルな降臨伝承が、日本神話の天孫降臨神話にそっくりなため、主祭神をのちに『瓊々杵尊』としたものでしょうか。
社伝によれば、延暦元年(782)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また将軍家代々の御祈願所であったそうです。適当に作った伝説とは思えません。
いずれにしろ、大変重大な伝承をもつお社であることは間違いないでしょうね。
日本神話における天孫降臨神話とは何か?
天孫降臨とは、日本神話において、天孫の瓊々杵尊が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降ったことです。
瓊々杵尊は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命などの神々を連れて、高天原から地上へと向かいます。
その途中、猿田彦神の案内を受け、筑紫の日向(ひむか)の高千穂に降り立ちます。
これは、天皇家の統治権の由来を語る、日本神話の中でも最も重要な部分だと言えます。
ふたつの天孫降臨地
天孫降臨の地としては、九州南部の霧島連峰の一山である高千穂峰(宮崎県と鹿児島県の県境)と、宮崎県高千穂町の双方に伝承がありますが、よく知られるようにどちらの場所が正しいのか定説がありません。
こちらは霧島連峰の高千穂峰。



日本神話の舞台にふさわしい、雄大で美しい山です。
しかし、もう一方の宮崎県高千穂町でも、雄大な山はないものの、神話の地にふさわしい景観や文化が見られます。





ちなみにここらは西臼杵郡ですね。
このほかにも、鹿児島県南部には、天孫降臨地の古跡がいろいろありました。
例えば、宮ノ山の笠沙宮古跡。




いったい、どれが本物の天孫降臨地なのでしょうか?
神話学における「天孫降臨」とは?
実は、神話学的に見れば、天孫降臨は日本独自の神話ではありません。
朝鮮古代の檀君神話などにも共通点があり、ネットでは「日本の天孫降臨神話は韓国のパクリ」などという極論を言う人さえいるのです。
正しくは、朝鮮半島も日本も、ともに北方ユーラシア系の王権神話の影響を受けている、とすべきでしょうね。
岐尼神社の天神山を訪ねて
岐尼神社に戻ります。
どうしても行くべきところがありますね。
岐尼神が南の小丘に降臨したもうたとき、土民は臼の上に杵を渡し、荒菰を敷いて迎えた
という「天神山」です。
この山は、岐尼神社のほぼ真南に400mほど行った場所にある、小高い丘のようです。
ちょうど田畑や市街地がある盆地の真ん中に位置する、独立峰の丘という感じでしょうか。

登り口を探してこの丘を回っていると、真南に鳥居と石段が見えました。

いったいここには何があるのでしょうか。
その暗くて急な階段を上ります。

頂上付近には、平坦な場所がありました。
祠と小さな岩があります。



背後は、神が降臨した頂上部分でしょうね。
それに対する祭祀場所として、この平坦部が造られているようです。

背後の頂上に上っても、今では薮ばかりで、特に磐座など目立つものはありません。
祠の前の小さな岩だけが、磐座を思わせる存在なのですが、何の説明板もなく、果たして古代からあったものかどうかは不明。

臼と杵と荒菰が意味するものとは?
「土民は臼の上に杵を渡し、荒菰を敷いて迎えた」という祭祀状況にヒントはないか、少し考えてみます。
北方ユーラシアに広がる王権神話の一端が、この地に根付いたと考えるならば、
「何も知らないこの地の土民が、臼と杵と荒菰を適当に思い付きで持ち出して迎えた」
などという単純なものではないでしょう。
影響の大小はあっても、正規の日本神話と並列する王権神話かもしれません。きっと意味があるはずです。
まず「荒菰」について。
「菰」は「薦」とも書き、水辺に生えるイネ科の多年草マコモの古名で、それを粗く編んでつくったむしろのことです。
天皇や貴人が歩く時の道筋や、神事で祭神が遷御する通り道に敷くとされます。
春日大社の式年造替で仮殿の「移殿(うつしどの)」から本殿まで祭神が通る道に敷かれるものは「清薦(きよごも)」と呼ばれ、出雲大社の涼殿祭(すずみどのさい)では筵道に真菰が敷かれるのだとか。
フクロウの神社で知られる栃木県那須郡那珂川町の鷲子山上神社では、「三本杉祭」で午後6時〜6時30分、庭上に荒菰(あらこも)を敷き、提灯の明かりにて神職が奉仕御幣を立て祈り、氏子の作った小粒のもちを三本杉社に供えますとホームページに記されています。
また、大分県中津市の大貞八幡宮薦神社。
ここは三角池を御神体とし、池を内宮、神殿を外宮と称しています。宇佐神宮との関係が深く、宇佐行幸会の際に神輿に納める霊代の枕は三角池の真薦で作るのが習わしでした。
ご神体の三角池がこれです。



『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、養老4年(720)三度目の反乱を起こした日向・大隅の隼人に対し、中央政府の征討軍は豊前軍と共に鎮圧に向かったとされます。
その時、この三角池に自生している真薦で造った、枕状の八幡神の御験を乗せた神輿を奉じて鎮圧に向かったとされます。
宇佐宮の祢宜 大神諸男は三角池の前にて祈願をした処、池一面に波が湧きかえり雲の中から「我、昔(三角池に自生している)この薦を枕とし百王守護の誓を起こしき。百王守護とは凶賊を降伏すべきなり」とご宣託を頂くのだそうです。
これらの事例を見ると、宇佐八幡系では「荒菰」は極めて神聖な祭祀物なのです。
次は杵と臼。
『日本書紀』によれば、大碓命・小碓尊ら双子出生の際、天皇が怪しんで臼に向かって叫んだので、「碓(うす)」の名がついたとされます。
あの有名なヤマトタケルの誕生です。
生成の呪術として臼をつく舂女も存在しました。
杵と言えば、時代は下りますが、弘法大師が布教と護身を兼ねて持っていたのが独鈷杵(とっこしょ)です。
その独鈷杵はインドから中国に伝わる間に装飾が施され、密教的呪術の意味合いをもち、修験密教僧を現す為の法具となったそうですが、杵と関係があるのは事実。
また聖徳太子の十七条憲法には、有名な
「以和為貴(和を以て貴しと為す)」
がありますが、実はこれには
「無忤為宗忤(さからう無きを宗と為せ)」
というフレーズが続きます。
この場合の「忤」はもともと「杵(きね)」の形をした呪具の象形文字で、その呪具を使って「(敵の)悪い呪術から身を守る、抵抗する、逆らう」というのがその語源だそうです。
☆
上気の理屈が、実際に岐尼神社と関係があったかどうかはわかりません。
しかし、いかにローカルでも天孫降臨神話は、特に外部との関連がない普通の農民が、いきなり考えつくような話ではないでしょう。
この地に、天孫降臨神話と関わる人たちがいたのか、あるいは北方ユーラシアの神話文化の系統をひく人たちが来たのか、何らかの要素はあったと思います。
いまのところ、それ以上は言えませんが、おそらくは日本各地にはもっと他にも、かつてミニ天孫降臨伝承があったのではと、そんな風に思います。
家計と休日予定を何とかやり繰りし、各地を回っております。ネタも少なくなり、先行きが不安ですが、それぞれクリックしていただくとネタ集めの励みになりますのでよろしくお願いいたします。

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