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恐山と延暦寺と慈覚大師・京の都の鬼門とは?

かつて京の都に住む人々は、鬼門を忌み嫌いました。
「京都御所」の北東部は「猿が辻」と呼ばれ、鬼門はしっかり切り取られています。

敷地の北東部が欠けているのは、「西本願寺」も「東本願寺」も同様で、一般の民家に至るまでその影響はあったようです。
平安時代の書き物では、都に出没する鬼が出入りするのも、鬼門の方向になっています。

その鬼門封じの役を担ったのが、比叡山延暦寺と、麓の日吉大社でした。

そして、鬼門を過度に恐れる京の都の権力者にとって、鬼門の彼方の「蝦夷」は、まさに鬼のように強く手ごわい地域でした。


昨日の記事では、福島県郡山市に鎮座する日吉神社の磐座について触れました。
この磐座は、「蝦夷」に対する鬼門封じとして、比叡山麓の日吉大社を分霊したのではというのが私の推理です。

ここで素朴な疑問が湧きます。
比叡山の鬼門封じは、日吉大社とともに、延暦寺もその任に当たっていたはず。
延暦寺は東北地方への鬼門封じに乗り出さなかったのだろうか?
という疑問です。


  ☆


ではまず、以前記事にした恐山の景色から入ります。

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現在では恐山というと、荒涼とした「地獄」の景色と「イタコ」による死者の口寄せが想い浮かびます

もともと恐山は、1200年前に慈覚大師(円仁)によって開かれた霊場です。
その慈覚大師は、津軽の霊場「川倉賽の河原地蔵尊」にも開基伝説が残っています。


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恐山と川倉賽の河原地蔵尊という、現代日本において最も土着的な信仰の残るお寺と、その開基たる慈覚大師は、いったいどういう関係なのか。
イタコなどの古いシャーマニズム的・土俗的信仰を、お寺の教義のなかに含めていたのでしょうか。

ところが慈覚大師は、日本の古い習俗に慣れ親しんだ伝統的なタイプの僧ではなく、おそらく近代以前ではもっともインターナショナルな僧なのです。



慈覚大師(円仁)とは?

慈覚大師円仁は延暦13年(794)生まれ。まさに平安遷都の申し子ですね。
幼くして仏門に入り、伝教大師最澄の弟子となります。

そして40代半ばで命からがら中国に渡り、山東半島から五台山へ約1270キロ、五台山から長安まで1100キロを苦労して徒歩旅行しただけでなく、
「仏教の僧尼はすべて還俗せよ、寺院・仏像・経巻はすべて焼き払え」
という武帝の仏教弾圧(会昌の破仏)に直面し、大変危険な状況にも遭遇します。

映画・インディジョーンズ並みの、ものすごい体験をして、唐や新羅の友人らの協力でなんとか日本に帰って来たのです。
中国滞在中に書いた「入唐求法巡礼行記」は、米国の駐日大使を務めたライシャワー博士が英訳し、歴史的な価値は玄奘三蔵の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」をもしのぐと紹介しました。
まさにインターナショナルな知識人なのです。

帰国してからは、浅草の浅草寺、山形の立石寺、松島の瑞巌寺などをはじめ、慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、仁寿4年(854年)には61歳で第3代延暦寺座主に任命されました。

ん?、延暦寺・・・・

出ましたね。
京の都を守る鬼門封じの延暦寺、そのトップになっているのです。

慈覚大師が開山した膨大な数の寺院は、浅草寺・立石寺・瑞巌寺・恐山菩提寺と、ほとんどが関東・東北地方です。
実際、近畿地方より西のエリアには、慈覚大師の開基と伝える寺院はほんのわずかしかありません。




開基はほぼ近畿以東、この片寄りは、いったいどういうことなのか?

このことに関し、明確な主張のブログを見つけました。

『はてノ鹽竈』様ブログの

「慈覚大師の任務・2008/12/17(水) 」という記事には、こう書かれています。

坂上田村麻呂に制圧された後の陸奥の国において、蝦夷たちの疲弊した精神に対する戦後処理にあたったのが、当時の国家的な仏教でもある「天台宗」であったようです。
さしずめ、円仁の存在は第二次大戦後のマッカーサーあたりをイメージすれば近いのかもしれません。
現在の東北地方の人々は、「円仁さん」などと親しみをこめて呼んでおりますが、あくまで想像ですが、もしかしたらその当時は当地にとって必ずしも歓迎すべき存在ではなかったのかもしれません。


うーん、マッカーサーとはなかなか大胆な例えですね。
若狭太郎の日吉大社分霊と同じく、より積極的な「蝦夷対策」として慈覚大師円仁が派遣されたとするなら、たしかに今までの疑問が解消します。
特に岩手県と宮城県に慈覚大師開基が目立つのは、胆沢鎮守府の城下、多賀国府の府下だったからかもしれません。

おそらくは驚異の忍耐力、リスク管理能力、アドベンチャー精神、仏教に対する深い理解と国際性、いずれの面でも傑出した慈覚大師に、朝廷は国家の安定を託したのでしょう。
高価な僧衣を身にまとった国内の高僧に、そんな大変な任務は無理でしょうから。

ちなみにマッカーサーは、国家主義のシンボルとも考えられていた神社神道を、結局弾圧しませんでした。
おそらく慈覚大師も、それこそシャーマニズムを含めた土着的信仰を頭から否定することなく、折り合いをつけながら地蔵信仰などを程よく根付かせていったのではないか。

唐における武帝の仏教弾圧と社会の混乱を目の当たりにした彼には、社会の安定とは何かという強い信念があったのでしょう。
芭蕉や山頭火のように、東日本の道なき道を巡り歩いた慈覚大師のおかげで、東北独自の素晴らしい宗教文化の火が消えずに残ったのかもしれませんね。


  ☆


恐山から下りてきたら、むつ市ではお祭りの真っ最中でした。


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なんだか京都の祇園祭を想い出す、華やかなお祭りです。
しかし地方からのアルバイト学生や外国人も山車を引く京都と違って、地元の方々総出で祭りを盛り上げておられるようでした。

ひとつの地域に、亡くなった方の口寄せもあれば、祇園祭のような祭儀もあるのですね。
多様な信仰儀礼文化があること、これこそが日本の伝統文化なんだなと、しみじみ思いました。


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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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