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薪神社と一休さんと大徳寺・京の都を貫く甘南備ライン

♪~すきすきすきすき すき すき いっきゅうさん~♪

といえば、誰でも知ってるアニメの一休さんですね(^_^)/~

その一休さんがいたお寺が、京都府京田辺市薪里ノ内の『酬恩庵 一休寺』なんです。


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なるほど、屏風に虎ですね!!

いろいろ拝見します。


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美しい庭が見えます。


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南庭は、大きい蘇鉄が植えられている典型的な江戸時代の禅苑庭園。


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北庭は禅院枯山水としての蓬莱庭園。
東北隅に約2メートルの巨石を配し、観音石として用いています。


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その昔、正面には京都へ通じる木津川を行く白帆を眺めることができ、晴れた日には比叡山を望んで楽しんだと言われています。
京都まで、当時は視界が開けていたのですね。

他にもこんな建物が。


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さて、方丈中央の内陣に安置されたこの木像は、一体誰?


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当然ながら、一休禅師です。
しかし、ただの木像ではありません。

これは、一休禅師逝去の年に高弟墨済禅師に命じて作らせたもので、一休禅師自身の頭髪と髭を植えたとされています。いわば、魂がこもった像なのです。

そう思って見ると、たしかにどこかリアルなものを感じます。


 ☆


さて、一休寺のすぐ近くにあるのが、薪神社(たきぎじんじゃ)の境内です。


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由緒等の詳しいことは不明のようですが、ていねいに祀られた磐座がありました。


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京田辺市大住に鎮座する月読神社には、

「祭神・月読神は、神社南方約4kmの甘南備山(当社南西にある山)に降臨したが、その依代である磐座は薪神社にある」

という意味の伝承があり、その磐座がこの石だろうと推測されます。

さらによく見ると、境内に「甘南備山」の案内板がありました。


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このお社と甘南備山は、とても関係が深いようです。

室町時代の1429年、一休さんはこの甘南備山に登りました。そして子どもらと問答したといわれます。
そりゃあすぐ近くで、京都まで広々と見渡せるのですから、その記録以外に何度も登っているでしょうね。


  ☆


日本史好きな方は、「甘南備山」とは、あの甘南備山?と思われたでしょう。
そうです、平安京の中心線の南端とされる「甘南備山」です。





かつて平安京の建都構想において、この山を南の基点として、北の船岡山と結ぶ直線を都の中心軸とし、大極殿、朱雀門、朱雀大路、羅生門などを建設したといわれています。

南北ラインのいちばん上を拡大してみてください。
すると、船岡山から南下する直線が、かつての朱雀大路である千本通りとほぼ重なり、平安京大極殿跡(緑色のポイント)を通ることが分かります。

もちろんこのラインは、すべての歴史学者に認められた説ではありません。
例えばこんな反対論。
船岡山や甘南備山の規模が小さく、遠くから眺めれば北山や生駒山などに重なって分からなくなってしまうような山が、平安京の基軸に使われるのにはふさわしいとは思えない、という説。

しかしこの説は、神体山を研究する者からは妥当とは思えません。
多くの神体山は、富士山のような大きな山ではなく、すぐ近くまで行かないと見えないような、小さな里山なのです。

典型的な例は、「天の香久山」です。
藤原京大極殿は、大和三山の中心部に建てられましたが、現地に行けば「天の香久山」はほぼ見えません。
なぜなら、多武峰などが背後にあって、もともと山体が細長く見える角度では事実上確認できないのです。


  ☆


さて、酬恩庵一休寺の元の名は妙勝寺でした。
鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めです。
その後、六代の法孫に当たる一休禅師が康正年中(1455〜6年)、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名しました。
一休禅師はここで後半の生涯を送り、八十一歳で京都の大徳寺住職となった時もこの寺から通ったそうです。

それにしても、八十一歳にもなって、遠く離れた大徳寺の住職になぜなったのか?

長年、権力を嫌っていた庶民派の一休さんですが、天皇の勅命であったため断ることができなかったとされます。
それは民衆に絶大な人気のある一休の名を利用して、大徳寺再建の為の資金を集めようとする朝廷の策略だったとも。

朝廷の考えは見事に的中します。
例えば貿易が盛んで自由な空気の堺では、破戒僧一休の人気は絶大でした。
「一休和尚に頼まれて、どうして断われよう」などと、商人だけでなく、武士、茶人、庶民までが我れ先にと寄進してくれ、莫大な資金が集まったそうです。そして5年後、大徳寺法堂が落成。

しかし大徳寺住職というのは肩書きだけで、実際には一度も大徳寺に住むことはなく、じつは愛する彼女とともに粗末な小屋で生活を続けたのだとか。


  ☆


ところで、先の地図を見ると、不思議なことが分かります。

紫色のポイントをご覧ください。

甘南備山の北東すぐに酬恩庵一休寺があり、船岡山の北東すぐには大徳寺があるのです。
これは偶然でしょうか?

15世紀後半の日本は、幕府の権力が失墜し、応仁の乱へと続く時期です。
一休禅師は、後小松天皇あるいは足利義満の血を引くと言われる特別の存在。

京の都の、元気できらびやかな時代を復活させるためには、その基軸たる甘南備山と船岡山の東北方面、即ち鬼門をしっかり守らねばならないと、誰か高貴な人間が考えたのではないか。

もはや比叡山は頼りにならなかったのでしょう。
そしてその大任を、特別な存在である一休禅師にゆだねたのではないか?

高価な法衣を着て権威権力を振りかざし、金で僧位を買うような腐敗した宗教界を一休は痛烈に批判しました。
そして禅僧でありながら酒を呑み、女性を愛し、肉を食べ、頭も剃らず、民衆と共に生きた人物でした。


  ☆


さて現在、甘南備山の北西の尾根筋に一等三角点が置かれ、ほぼ真北の方角に京都市の市街地全景、比叡山、愛宕山、北山などが見渡せるそうです。
この峰の東下50mの崖地には、「白石(しらいし)」と呼ばれる大岩が露岩し、太陽光線の反射によって白く光るのだとか。

季節や時間の条件次第で、白石が輝く様子は京都盆地からはっきり見えたと思います。周囲とは一線を画し、明らかに秀でた特性の岩や山は、しばしば信仰の対象となってきました。

やはり甘南備山は、都の人々にとって特別の聖なる山だったのではないでしょうか。
そしてその麓に住む一休禅師も、鄙の聖地に住む特別な僧として、おそらくは同じような畏敬の目で見られていたのではないか、そんな気がします。



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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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