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郡山市の日吉神社・不思議な人面岩の謎と坂上田村麻呂

福島県郡山市西田町三町目に鎮座する日枝神社(ひえじんじゃ)の社殿前には、人面岩とでも呼んだらいいのか、何とも奇妙な巨石があります。人か動物か、何かしら生き物の顔のようなものに、社殿が睨まれているようです。

例によって、このお社の情報はネットではほとんど得られません。


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いったいこれは何なのか。神社の信仰と、どういう関係があるのか。

今日は、その謎に迫りたいと思います。


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一の鳥居の手前に、お社の説明書きが掲示されていました。

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由緒については、こう書かれています。


延暦10年(791年)坂上田村麻呂の蝦夷征討の際、京都北面の武士(藤原氏若狭太郎という)が守護神の日吉大権現を背負って従軍し、東奥を悉く平定しました。後に田村麻呂は帰朝しましたが、若狭は当地に土着して、延暦19年に山王山に神霊地を撰しまして守護神を安置し、岩神社山王大権現と崇め祠官となりました。若狭太郎の寂後、子孫藤原の朝臣猿子隼人介正成が岩神社山王大権現の神主となり、数代後に増子の氏となったのであります。

書かれていることが歴史的事実かどうかは、もちろん検討の余地があります。

たとえば「京都北面の武士」は、白河上皇の時設置されたとするのが通説で、上皇となったのが応徳3年(1086年)。文献上でも『為房卿記』康和5年(1103年)8月17日条に「北面伺候五位六位十人許」とあるのが北面の初見で、791年という年号とは矛盾します。

しかし年代、役職、個人名には後世の付会や変遷があるとしても、日吉大権現を信仰する京都からきた武士が、この地に日吉信仰を根付かせたというのは、特に矛盾のない話です。

この「日吉神社」の祭神は「大己貴命」と「大山咋命」。
本家の「山王総本宮 日吉大社」の祭神は西本宮が「大己貴神」、東本宮が「大山咋神」。

祭神はまったく同じですから、誰かが「山王総本宮 日吉大社」の信仰を持ち込んだことは明らかです。

では、もう少し詳しく境内を見ます。

一の鳥居を過ぎると、樹間の石段となり、直登ルートと左からの迂回ルートに分かれます。

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左側から社殿のある台地に登ると、社殿背後は岩盤らしいことが分かりました。

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そして、人面のような岩。


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反対側から見ます。


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頭部のアップ。


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岩の背後は、背骨のように角がまっすぐ伸びています。

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側面はきれいに面取りされていました。

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足もとは、置かれたような状態です。震災時はここもかなり揺れたはずなのに、なぜ滑り落ちていないのか不思議でした。やはり地中深くまで延びた露岩なのでしょうか。

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次に社殿です。

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岩盤に開けた洞窟のような場所に、ご神体が安置されているようです。


  ☆


ではここで、本家の「山王総本宮 日吉大社」のホームページを見ます。

比叡山の麓に鎮座する当大社は、およそ2100年前、崇神天皇7年に創祀された、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。平安京遷都の際には、この地が都の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除・災難除を祈る社として、また伝教大師が比叡山に延暦寺を開かれてよりは天台宗の護法神として多くの方から崇敬を受け、今日に至っています。

平安京の東北方向、鬼門に当たる比叡山の麓に鎮座する日吉大社が、都の魔除・災難除を祈る社であったことは有名です。

ところで、日吉神社の「顔のような巨石」が一種の磐座であったことは間違いありません。そこで総本宮日吉大社の境内にある磐座にヒントはないか調べます。

まずは信仰の原点、金大巌です。10メートル近い高さの巨石で、ここに大山咋神が降り立ったといわれます。

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もう一つ、ホームページにも写真が載っている猿の霊石(通称猿岩)


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神猿さんは魔除けの象徴
そもそも猿は全国に生息しておりますが、何故か古来より日吉といえば猿といわれ、いつの頃からか魔除けの象徴として大切に扱われるようになりました。「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、大変縁起のよいお猿さんです


と説明があります。

古来より「日吉といえば猿」でした。
豊臣秀吉は、母親が清洲の日吉神社に詣でた時に日輪が懐中に入る夢を見て授けられ子であるとのエピソードがあり、日吉丸の名の由来もそこにあることは有名な話です。そして素早い身のこなしと彼の顔立ちが、日吉神社の神の使いである猿に似ているというのであだ名が「猿」になったといわれます。

あるいは逆に、信長が「猿」と呼んでいたことから、猿をお使いとする日吉神社の申し子であったという話が生まれ、そこから日吉丸という名前が後世出てきたという説もあります。

いずれにしろ、「日吉といえば猿」であることに違いはありません。


  ☆


で、結論です。

下の「顔のような岩」の正体は、リアルではありませんが、猿だと思います。

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本家の「猿の霊石」を、より堂々とした大きさで表したものではないでしょうか。

由緒書きには
「藤原氏若狭太郎という武士が守護神の日吉大権現を背負って従軍し、東奥を悉く平定しました」とありますから、かなり強い意思と強い信仰心を持って戦ったことになります。
それがある程度事実を元にしているなら、この武士は本家の日吉大社に何度も参詣し、「金大巌」も「猿の霊石」もよく知っていたでしょう。

東北地方に日吉信仰の拠点を探したとき、「金大巌」に似た岩盤があり、その前に整形すれば猿に似る露岩があったなら、ここにお社を建てた理由が明確になります。

由緒の中に
「若狭太郎の寂後、子孫藤原の朝臣猿子隼人介正成が岩神社山王大権現の神主となり」と書かれており、「猿子」という文字があるのも意味深ですね。゜


  ☆


さて、これに関して、驚くべき事実がありました。

794年、都が長岡京から平安京へ遷都されましたが、その平安京の中央を通るメインストリートである朱雀大路は現在の千本通にあたります。その千本通と丸太町通の交差点の北西に大極殿の説明板があり、北側の小さな児童公園 (内野児童公園)の中に大極殿跡の石碑が建てられています 。

この大極殿跡から、都の鬼門を守る比叡山は大きく堂々と見えます。
で、大極殿跡から比叡山頂四明岳を結ぶ線を地図上に引いてみます。

その線をどこまでも延長すると・・・・・





なんと、ほぼこの延長線上に、福島県郡山市の日吉神社が位置しているのです。

大極殿跡から比叡山頂までの間は紫色の線で表示していますので、地図を拡大してご確認ください。

これが意図的なものなら、

平安京という都の鬼門を守るのが比叡山(日吉大社や延暦寺)
平安京を含む当時の日本を蝦夷という鬼門から守るのが郡山の日吉神社


という明確な国家的意思があったのではないでしょうか。

ならば、巨大で異様な猿の霊石は、目の前のご神体を見ているのではなく、その彼方の「まつろわぬ蝦夷」を見ていて、それを封じる役目を朝廷から与えられたのではないか。

日吉大社のホームページが言う、「魔が去る」「勝る」役目を持つ猿の霊石であれば、異様に大きいことの理由が納得できます。蝦夷の人々の勢力は強大だから、それに対抗するには畏怖感あふれる力強い岩が必要なのだと思います。



しつこいようですが、再び日吉大社と猿の関係です。

日吉大社のホームページには、こう書かれています。

京都で平安京に遷都されました折には、比叡山が都の鬼門(北東)に位置することから、当社は都の鬼門封じの社として崇敬され、その折にこのお猿さんが「魔をさる」として「まさる」と呼ばれるようになり、魔除けの象徴となりました。
今でも京都御所の北東の外壁にはお猿さんの彫刻がつけられています。



一方、このころの出来事を年表にするとこうなります。゜

789年  紀古佐美の率いる朝廷軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗
794年  平安京遷都
797年  坂上田村麻呂が桓武天皇により征夷大将軍に任じられる
801年  遠征に出て蝦夷軍に勝利


さらに郡山市日枝神社の伝承では、若狭太郎が
「山王山に神霊地を撰しまして守護神を安置し、岩神社山王大権現と崇め祠官となりました。」
とされるのが800年。



この時代の情勢を考慮すると、激闘の末蝦夷軍に勝利し、やっと広げた領土の守り神として、平安京と同じ日吉大社の神を鬼門封じの社として設置するというのは、十分ありうる話だと思います。

しかし、本家の日吉大社の神様は、「金大巌」に降臨しました。分霊にも、それ相応の神聖な岩が必要です。
そんな時、若狭太郎が見つけたのが、大きな岩盤を背に、人か猿のようにも見える磐座があるこの地だったのでしょう。

ではこのブロジェクトは、若狭太郎が勝手に進めたことなのでしょうか。

私はそうは思いません。
坂上田村麻呂は父苅田麻呂が松尾大社に祈願して得た子であり、幼名を松尾丸と名付けられました。坂上田村麻呂は父母とともに、松尾大社への感謝は並々ならぬものがあったはずです。

そして、田村麻呂が崇敬したであろう松尾大社の神とは、いったいどなたなのか。


松尾大社ホームページより、御祭神を紹介する説明をお借りします。

御祭神  大山咋神 (おおやまぐいのかみ)

大山咋神(おおやまぐいのかみ)は、古事記の記述によると、須佐之男神(すさのおのみこと)の御子である大年神(おおとしのかみ)の御子とあらわされております。

同書には…「大山咋神またの名は山末之大主神、此神は近淡海国の日枝山に座し、また葛野の松尾に座す鳴鏑(なりかぶら)を用ふる神なり」… 

とあり、山の上部(末)に鎮座されて、山及び山麓一帯を支配される(大主)神であり、近江国の比叡山を支配される神(現日吉大社)と、ここ松尾山一帯を支配される神(現松尾大社)がおられたと伝えています。


つまり、坂上田村麻呂にとって「大山咋神」とは、自分を誕生させてくれた神であり、平安京の鬼門を守る神でもあります。

自分が苦労の末に平定した東北地方に、領土の守り神として「大山咋神」の分霊を招くというのは、坂上田村麻呂自身が考えた可能性すらあります。
「日吉大権現を背負って従軍し、東奥を悉く平定しました」という伝承が史実を反映しているなら、若狭太郎が司令官に内緒でそんなことをする必要性は全くないからです。平成時代の流行である「忖度」をして、上司である坂上田村麻呂の信頼を得、中央官庁の出世コースに・・・という可能性はありません。なぜなら、彼は郡山にとどまり、神社に仕えることを選んだからです。


私には
「若狭太郎よ、あとは頼んだぞ」
と、忠実な部下に自らの神を託し、自らは都に帰る田村麻呂の姿が見えるような気がします。


  ☆


なお、郡山市、ましてや日吉神社が「大極殿・比叡山頂ライン」のほぼ延長線上にあることなど、国土地理院もGPSもない時代に分かるわけがない、という声が聞こえてきそうです。しかし、精密な測定具はなくとも、高い山との相互関係でだいたいのことが分かります。

例えば京都市西南部からは、比叡山は夏至の太陽がその頂上南面から登る山です。比叡山からは伊吹山に、伊吹山からは御嶽に、というような事実を総合すると、京都市から夏至の朝日の方向(東北東)にはどんな土地があるかははっきりわかります。

また1999年元旦、日本テレビの「ズームイン朝」で、夜明けに和歌山県那智勝浦町の妙法山から見えた322.6km先の富士山の映像がテレビ放映されました。
さらに2016年11月には、福島県川俣町と飯舘村の花塚山から、308km先の富士山山頂が撮影されています。富士山と特定の朝日や夕日の方向と比べるだけでも、相互の位置関係を把握することは可能です。

鬼門や裏鬼門という当時の重大な関心事に関する地理的知識は、かなり正確であったとしても不思議はあのません。


ところで坂上田村麻呂は54歳で病死し、山城国宇治郡来栖村に葬られました。その葬儀の際に勅があり「甲冑・兵仗・剣・鉾・弓箭・糠・塩を調へ備へて、合葬せしめ、城の東に向けひつぎを立つ」ようにと、死後も平安京を守護するように埋葬されたと伝えられています。
亡くなった人の棺を立てて、平安京の防衛に使おうとするなど、京の都を霊や神仏の力で必死に守ろうとしたのでしょうね。

この時代は嵯峨天皇。
蝦夷との戦争も、薬子の変も、ともに乗り切ってきた信頼すべき剛腕・坂上田村麻呂の死に、思うところはさぞかし大きかっただろうなと推察する次第です。





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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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