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二本松市の七尋石公園・知られざる巨石信仰を訪ねて!

福島県二本松市上川崎字七尋石にある七尋石山公園
名前から推理して、整備された公園の中に大きな岩でも横たわっているのかと勝手に思い、地図を頼りに行ってみました。

現地は阿武隈川に近い丘陵地帯で、細い道のところどころに民家が点在しています。事前にネットで検索しても、薄暗い日に写したような、一応赤っぽいツツジが斜面らしきところに咲いている写真のみ。唯一のそれが各所で使いまわされているようで、どんな場所かまったく不明なのです。

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いちばん詳しい現地の観光案内にはこうありました。

春にはつつじが美しく咲き誇る、風光明媚な公園です。佐藤大膳太夫の居住していた愛宕館の跡地に整備され、西国三十三観音像や風神、雷神などの神号が刻まれた、存在感のある巨大な石が印象的です。巨石のすぐ後ろには、将軍地蔵尊が祀られており、その周りには、自然石に文字が刻まれた数々の庚申塔が建てられ、地元の人々に信仰されています。


巨石があるけれど、ただの石碑?
「七尋」というからには、10m以上はある岩があるはずなのですが・・・

まあとにかく、道路地図上の「七尋石公園」へは到着しました。
しかしそこは案内板も駐車場もベンチもなし。公園の標示も全くありません。

写真に写っていたツツジの斜面は、多分ここだろうという場所がこれです。

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高さが1~2メートルの巨石が、丘の急な斜面に張り付いています。どことなく人為的な配置のようにも見えます。

それぞれの岩には、何か文字のようなものが・・・・

よく見ると、うっすらと「庚申」と彫られているものが多いようです。画面左側中央部にある、小さくて尖った岩にだけは、「西国三十三所」というはっきりした文字。

いずれも近世の石碑で、古代の巨石信仰というわけではありません。


たまたまこの近くに、農作業をしておられたご高齢の女性が見えたので、妻が行って話を聞きました。
(こんな時は女性に限ります。いまどき男一人が怪しげに近づくと、逃げられてパトカーが来たりします(―_―)!!

「七尋石」という石があるかどうかを聞いたのですが、よくわからないという答えでした。ただ、この丘の上には「愛宕様」のお社があり、火防せの神様で、そこへ登る道もあるということでした。

道があるなら上に登ってみようと、お聞きしたところから細い道をジグザグに登ります。すると、見えてきたのです。巨大な立石が。


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「やったぁ」という気持ちを抑えて近づきます。

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ただ大きいだけの岩かと思ったのですが、建物の背後には、溝のようなものが見えます。


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溝の中を覗くと、何か複雑な構成です。

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左側にまわってみます。どうも複数の岩からできているようでした。


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なんとも不思議な岩で、このような形状の岩は見たことがありません。
仮に、この岩を「七尋石」として置きます。

先ほどのツツジの斜面の上が、この「七尋石」とお社の立地点です。
そしてさらに背後へは、丘陵が続いていますが、樹林で先は見えません。


それにしても、この「七尋石」はいったい何なのでしょう。


手がかりその①  庚申とは何か?

庚申の日の夜は、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、本人が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされます。それを避けるため、庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習のことを「庚申講」あるいは「庚申待ち」と呼ばれます。

岩に「庚申」と彫られたものは庚申塔とか庚申塚といい、庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いそうです。

庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代になってからで、当初は青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵などさまざまなものが彫られました。「庚申」と漢字で彫るのは江戸中期から後期にかけての時期だとされます。

とすると、斜面の巨石群に「庚申」の文字が彫られたのは、江戸時代後半の時期である可能性が高いと思います。しかし、いずれも控えめな彫り方です。もし他所にあった岩に彫って、わざわざ斜面に運び上げて据え付ける人力あるいは財力があるなら、もう少し立派な彫り方にするのではないでしょうか。

私は、もともと斜面に張り付いていた巨石に、地元の庚申講の人たちが何年かに一度、「庚申」という字を彫り込んでいったものと推測します。

もしその推測が正しいなら、もともと斜面の巨石群はここにあったことになります。



手がかりその②  西國三十三所とは何か?

ひとつだけある「西國三十三所」の文字は、第一番の那智山青岸渡寺から第三十三番の谷汲山華厳寺まで、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称を指すのでしょう。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行で、現在も多くの参拝者が訪れています。

『福島県立博物館紀要第29号2015年3月』の中で内山大介氏が、東北の観音霊場と民俗信仰について書かれています。
それによれば、畿内から始まった「西国三十三所」巡礼は、鎌倉時代には東国に「坂東三十三所」、室町時代には「秩父三十三所」が成立するなどして広がり、さらに各地に同様な地方霊場· うつし霊場が数多く生まれたそうです。
同時に、東北の地からも、古くから人々が西国をはじめとする霊場に足を運んでおり、各地にそれを示す資料が残されている、と書かれています。

少なくともこの周辺の誰かが「西国三十三所」巡礼に行き、記念碑として据え付けたものか、あるいはこの岩山のあたりに「ミニ巡礼地」を作ろうとしたものか、どちらかでしょうね。「庚申」の文字とは違い、明瞭に彫られていて土台の岩も小さいので、おそらく別の作業場で石工の手を借りて造り、複数の人間で斜面に据え付けたものと見られます。


手がかりその③  愛宕という神社名
   
全国の愛宕神社の総本山は、京都市右京区の愛宕山山頂に鎮座する「愛宕神社」です。比叡山よりも高い山ですが、巨石信仰や磐座信仰は、ほぼありません。私は十回以上登っていますが、登山道にも岩はみかけません。ですから、愛宕という名とここの巨石の直接的なつながりはないと思います。





さて、ここで疑問がわきます。
「庚申」であれ「西国三十三所」であれ、丘の上の「七尋石」になぜ彫り込まなかったのか。
この巨石に掘り込めば、視覚的効果は抜群でしょう。


しかしそんなことは、多分できなかったのでしょうね。それは、すでに古くからの巨石信仰やそれを受け継いだ形の愛宕信仰がずっと続いていたからだと思います。(本家にはないにしろ)
いわば、「七尋石」に対する伝統的な畏怖感が、安易な利用を許さなかったのではなかったのでしょうか。

たとえばアラハバキ系の巨石信仰には、単なる巨大な立石ではなく、こことタイプは違えど不思議な割れ目や穴を持つものが目立ちます。

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仏教・神道・道教のいずれであれ、畿内の信仰文化が入る前は、「七尋石」を中心とする土着の巨石信仰があり、その丘を維持するために斜面に巨石が埋め込まれていたのかもしれません。その後畿内の信仰が進出し、丘の上の巨石には「愛宕」信仰、斜面には「庚申」信仰と「西国三十三所」巡礼の信仰に変わって行ったのではないか、そんな気がします。

なお、「佐藤大膳太夫の居住していた愛宕館の跡地」という表記もあります。他の史料ではこの居住時期は「寛政年間」とされ、寛政は1789年から1801年までの期間ですから、大膳太夫という古い官位は自称でしょうね。この佐藤さんが、在地の巨石信仰を畿内ふうに変えた可能性もあります。

いずれにしろ、ここは由来不明の巨石文化だと思います。土器とか拾った人がいれば、推理ができるのですが。


余談ですが、こんな植物が山道に生えていました。私には、観葉植物のアグラオネマにしか見えません。
ちょっと前まで雪があったはずなのに、鮮やかな斑入りの葉がきれいでした。

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sazanamijiro

Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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