FC2ブログ

記事一覧

「君が代・さざれ石」のウソと箱森稲荷

兵庫県丹波市氷上町の箱森稲荷神社は、境内が整理されたせいなのか、巨大な磐座が一目瞭然となっていました。ここは、『国歌・君が代』の「さざれ石のいわおとなりて」の歌詞にかかわる極めて重要なお社です。卒業式・入学式シーズンには身近になる歌詞ですが、本当の意味はほとんど知られていません。
以前、このお社の写真を二枚載せましたが、分かりにくかったので再度詳しくアップし、「さざれ石」の意味についても簡単にまとめます。


箱森稲荷神社は、明治山という丘陵を背後に鎮座するお社です。

DSCF9265.jpg


DSCF9239.jpg


DSCF2914.jpg



社殿が建立されたのは明治三年。それまでは、この巨大な岩が崇拝されていたようです。

DSCF2912.jpg


DSCF2909_convert_20180315130556.jpg


DSCF9246.jpg


DSCF2911.jpg


伝承によると、ある年の大洪水で、箱に入った神像がここに流れてきました。それを拾って祀っておくと、一晩のうちにこのような大岩石となったので、以来これをいつき祀るとあります。

岩が自ら大きく成長するというのは、かつてこの国に広く見られた民間信仰なのです。
柳田国男は、その例を各地から拾い上げ、「袂石」という論文にまとめました。文末資料に転載しましたので、お時間のある方はご一読ください。



「さざれ石」とは何か?

以下はウィキペディアに書かれた「さざれ石」を要約したものです。

①さざれ石は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指す。学術的には「石灰質角礫岩」などとよばれる。

②日本では、滋賀県・岐阜県境の伊吹山が主要産地である。

③2003年(平成15年)9月に、宮崎県日向市の大御神社で、境内の拡張工事中に日本最大級のさざれ石群が発見された。


ウィキペディアのこの記述には、明らかな矛盾があります。
下は宮崎県日向市の大御神社にある「さざれ石」ですが、説明書きをみてもわかるように、一般的な「礫岩」であって、「石灰質角礫岩」などではありません。

IMG_3169_convert_20170815144207_201803151348394bd.jpg


IMG_3166.jpg


ウソとまでは言えないのですが、いつのまにか石灰質角礫岩説が席巻しているのが最近の実態です。
さて現在、あちこちの神社の境内に、「さざれ石」が新しく置かれている光景をよく見ます。上記「さざれ石=石灰質角礫岩」説に基づき、岐阜県から運ばれたものがその大半を占めます。

その大元の『さざれ石公園』に置かれた巨大なさざれ石が下です。

P7260008_20180315134841fb0.jpg


表面をアップしました。これを手で触れれば、ぼろぼろと砂や小石が剥がれ落ちます。「千代に八千代に」という永遠性を仮託する対象としてふさわしいとは、とても思えません。

IMG_1383_convert_20180315130847.jpg



では、「さざれ石=石灰質角礫岩」説が間違いなら、どんな岩が正しいのか。

下は以前に載せた、櫃石島の王子神社に鎮座する「キイキ石」です。

IMG_0807_convert_20170819094538_20180315134728daa.jpg

IMG_0798_convert_20170819112914_20180315134720aee.jpg


この岩は、今でもまだ大きくなっているとされます。少しずつ大きくなるという、まさに「国歌君が代のさざれ石」にふさわしい伝説を持つ、美しく神秘的な岩です。表面も滑らかで、ゴツゴツボロボロとはしていません。
もちろんこの岩が「さざれ石」なのではなく、各地にあるこのような伝承が「さざれ石のいわおとなりて」という表現をもたらし、『古今和歌集』や『和漢朗詠集』などに抵抗なく取り上げられたと考えられます。

たくさんの石が結合して大きくなるのがさざれ石だと考えるのは、地学的な知見に基づいた発想であり、昔の人の考え方ではありません。霊的な石、神様の石などは、それ自体が少しずつ成長して、さざれ石(細石=小さい石)だったものが長年月の間に大きな岩になるというのが、この国の伝統的な考え方であったのです。

少なくともこのブログを以前から読んでいただいている方は、石や岩はしばしば神の依りつく神聖なものであり、それ自体が大きくなるという伝承があっても不思議ではないと納得していただけると思っています。


結論です。
「さざれ石」を置こうと考えておられる神社関係の方も、「君が代」の指導が迫られている学校の先生方も、まずは下の資料を読んでいただき、そのあとでランキングボタンをポチッとクリックしていただくのがよろしいかと(^^♪・・・・・・・・
 (すいません、今のは忘れてください(*_*)



家計と休日予定を何とかやり繰りし、各地を回っております。ネタも少なくなり、先行きが不安ですが、それぞれクリックしていただくとネタ集めの励みになりますのでよろしくお願いいたします。


にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村


にほんブログ村


神社・仏閣ランキング

《拍手》は資料の下にあります(^_^)/~



(文末資料)
袂石(たもといし) 柳田国男

昔備後の下山守村に、太郎左衛門という信心深い百姓があって、毎年かかさず安芸の宮島さんへ参詣しておりました。ある年神前に拝みをいたして、私ももう年をとってしまいました。お参りもこれが終りでござりましょう、といって帰って来ますと、船の中で袂に小さな石が一つ、はいっているのに心付きました。誰か乗り合いの人がいたずらをしたものであろうと思って、その石を海へ捨てて寝てしまいました。翌朝目が覚めて見ると、同じ小石がまた袂の中にあります。あまり不思議に思って大切にして村へ持って帰り、近所の人にその話をしましたところが、それは必ず神様からたまわった石であろう。祀まつらなければなるまいといって、小さなほこらを建ててその石を内に納め、厳島大明神と称となえてあがめておりました。その石が後にだんだんと大きくなったということで、この話をした人の見た時には、高さが一尺八寸ばかり、周りが一尺二三寸程もあったと申します。それからどうしたかわかりませんが、もし今でもまだあるならば、またよほど大きくなっているわけであります。(芸藩志料 広島県蘆品郡宜山村)

信州の小野川には、富士石という大きな岩があります。これは昔この村の農民が富士に登って、お山から拾って来た小石でありました。家の近くまで帰った時、袂の埃ごみを払おうとして、それにまぎれてここへ落したのが、いつの間にかこのように成長したものだといっております。(伝説の下伊那 長野県下伊那郡智里村)

また同じ地方の今田の村に近い水神の社には、生き石という大きな岩があります。これは昔ある女が、天竜川の川原で美しい小石を見つけ、拾って袂に入れてここまで来るうちに、袂が重くなったので気がついて見ると、その小石がもう大きくなっていました。そうして自分が爪の先で突いた小さな疵きずが石と共に大きくなっているので、びっくりしてこの水神様の前へ投げ出しました。それが更に成長して、しまいにはこのような巌となったのだといい伝えております。(伝説の下伊那 長野県下伊那郡竜江村)

熊野の大井谷という村でも、谷川の中流にある大きな円形の岩、高さ二間半に周りが七間もあって、上にはいろいろの木や草の茂っているのを、大井の袂石といってほこらを建てて祀っておりました。それをまた福島石ともいっていましたが、そのわけはもう伝わっておりません。(紀伊国絵風土記 三重県南牟婁郡五郷村)

  伊勢の山田の船江町にも、白太夫の袂石という大石があります。高さは五尺ばかり、周りに垣をして大切にしてありますが、これは昔菅公が筑紫に流された時、度会春彦という人が送って行って、帰りに播州の袖の浦という所で、拾って来たさざれ石でありました。それが年々大きくなって、終ついにこの通りの大石となったので、その傍に菅公の霊を祀ることになったといい伝えて、今でもそこには菅原社があります。(神都名勝誌 三重県宇治山田市船江町)

土佐の津大村と伊予の目黒村との境の山に、おんじの袂石という高さ二間半、周り五間ほどの大きな石がありました。これは昔曽我の十郎五郎兄弟の母が、関東から落ちて来る時に、袂に入れて持って来たものといい伝えております。この地方の山の中の村には、曽我の五郎を祀るという社が方々にあり、またその家来の鬼王団三郎の兄弟が住んでいたという故跡なども諸所にあります。曽我の母が落人になって来ていたということも、この辺ではよく聞く話なのであります。(大海集 高知県幡多はた郡津大村)

肥後の滑石村には、滑石という青黒い色の岩が、もとは入り海の水の底に見えておりましたが、埋め立ての田が出来てから、わからなくなってしまいました。この石は神功皇后が三韓征伐のお帰りに、袂に入れてお持ちになった小石が、大きくなったのだといっておりました。(肥後国志 熊本県玉名郡滑石村)

九州の海岸には神功皇后の御上陸なされたといい伝えた場所が、またこの他にもいくつとなくあります。そうして記念の袂石を大切にしていたところも、方々にあったのではないかと思います。一番古くから有名になっていたのは、筑前深江子負原というところにあった二つの皇子産み石であります。これはお袖の中にはさんでお帰りになったという小石ですが、万葉集や風土記の出来た頃には、もう一尺以上の重い石になっておりました。卵の形をした美しい石であったそうです。後にはどこへ移したのか、知っている人もなくなりました。土地の八幡神社の御神体になっているといった人もあれば、海岸の岡の上に今でもあって、もう三尺余りになっているという人もありました。(太宰管内志 福岡県糸島郡深江村)

大きくなった石というのは、大抵は遠くから人が運んで来た小石で、始めからそこいらのただの石とは違っておりました。下総の印旛の近く、太田村の宮間某という人の家では、屋敷に石神様のほこらを建てて、五尺余りの珍しい形の石を祀っていました。むかしこの家の前の主人が、紀州熊野へ参詣の路で、草鞋わらじの間に挾はさまった小石を取って見ますと実に奇抜な恰好をしていました。あまり珍しいので燧袋ひうちぶくろの中に入れて持って帰りますと、もう途中からそろそろ大きくなり始めたといっております。(奇談雑史 千葉県印旛郡根郷村)

また千葉郡上飯山満の林という家でも、この成長する石を氏神に祀っていました。これはずっと以前に主人が伊勢参りをして、それから大和をめぐって途中で手に入れた小石で、巾着に入れて来た故に、その名を巾着石と呼んでいました。(同書 同県千葉郡二宮村)

土佐の黒岩村のお石は有名なものでありました。神に祀って大石神、また宝御伊勢神と称となえております。これもずっと昔ある人が、伊勢から巾着に入れて持って来てここに置いたのが、終にこの見上げるような大岩になったのだといっております。(南路志其他 高知県高岡郡黒岩村)

筑後にも大石村の大石神社といって、村の名になった程の神の石があります。昔大石越前守という人が、伊勢国からこの石を懐に入れて参りまして、これを伊勢大神宮と崇めたともいえば、或いは一人の老いたる尼が、小石を袂に入れてこの地まで持って来たのが、次第に大きくなったともいっております。今から三百年前に、もう九尺三方ほどになっておりました。そうして別に今一つ三尺ほどの石があって、村の人はそれをも伊勢御前と称えて、社をたてて納めておりました。その社殿を何度も造り替えたのは、だんだん大きくなって、はいらなくなって来たからだといっております。(校訂筑後志 福岡県三瀦郡鳥飼村)

この大石村のお社には、安産の願掛けをする人が多かったそうです。石のように堅く丈夫な子供、おまけに知らぬ間に大きくなるという子供を、親としては望んでいたからでありましょう。熊野から来たという石の中には、ただ成長するだけでなく、親とよく似た子石を産んだという伝説もありました。例えば九州の南の種子島の熊野浦、熊野権現の神石などもそれでありました。このお社は昔この島の主、種子島左近将監という人が熊野を信仰して、遠くかの地より小さな石を一つ、小箱に入れて迎えて来ましたところが、それが年々に大きくなって、後には高さ四尺七寸以上、周りは一丈三尺余、左右に子石を生じてその子石もまた少しずつ成長し、色も形も皆母石と同じであったと申します。(三国名勝図会 鹿児島県熊毛郡中種子村油久)

これとよく似た話がまた日本の北の田舎、羽前の中島村の熊野神社にもありました。今から四百年ほど前にこの村の人が、熊野へ七度詣りをした者が、記念の為に那智の浜から、小さな石を拾って帰りました。それが八十年ばかりの間にだんだんと大きくなって、後には一抱えに余るほどになりました。形が女に似ているので姥石という名をつけました。それが年々に二千余りの子孫を生んで、大小いずれも形は卵の如く、太郎石次郎石、孫石などと呼んでいたというのは、見ない者にはほんとうとも思われぬ程の話ですが、これをこの土地では今熊野といって、拝んでいたそうであります。(塩尻 山形県北村山郡宮沢村中島)

土佐では今一つ。香美郡山北の社に祀る神石も、昔この村の人が京の吉田神社に参詣して、神楽岡の石を戴いて帰って来たのが、おいおいに成長したのだといっております。(土佐海続編 高知県香美郡山北村)

伊勢では花岡村の善覚寺という寺の、本堂の土台石が成長する石でした。これは隣りの庄という部落の人が、尾張熱田の社から持って来て置いたもので、その人はもと熱田の禰宜であったのが、この部落の人と結婚したために、熱田にいられなくなってここへ来て住んだといって、そこには今でも越石だの熱田だのという苗字の家があります。(竹葉氏報告 三重県飯南郡射和村)

肥後の島崎の石神社の石も、もとは宇佐八幡の神官到津氏が、そのお社の神前から持って来て祀ったので、それから年々太るようになったといっております。(肥後国志 熊本県飽託郡島崎村)

この通り、大きくなるのに驚いて人が拝むようになったというよりも、始めから尊い石として信心をしているうちに、だんだんと大きくなったという方が多いのであります。だからその石がどこから来たかということを、今少しお話しなければならぬのでありますが、安芸の中野という村では、高さの二丈もある田圃たんぼの中の大きな岩を、出雲石といっておりました。これもまだ小石であったうちに、人が出雲国から持って来て、ここに置いたのが大きくなったといっております。(芸藩通志 広島県豊田郡高阪村)

その出雲国では飯石神社の後にある大きな石が、やはり昔から続いて大きくなっておりました。石の形が飯を盛った様だからともいえば、或は飯盒の中にはいったままで、天から降って来た石だからともいっております。(出雲国式社考以下 島根県飯石郡飯石村)

どうしてその石の大きくなったのがわかるかといいますと、その周りの荒垣を作りかえる度毎に、少しずつ以前の寸法を、延べなけらば納まらぬからといっております。豊前の元松という村の丹波大明神なども、四度もお社を作り替えて、だんだんに神殿を大きくしなければならなかったといっておりました。昔丹波国から一人の尼が、小石を包んで持って来て、この村に来て亡くなりました。その小石が大きくなるのでこのほこらの中に祀り、丹波様と呼ぶようになったのだそうであります。(豊前志)

石見の吉賀の注連川という村では、その成長する大石を牛王石といっております。これは昔四国を旅行した者が、ふところに入れて持って帰った石だと申しています。(吉賀記。島根県鹿足かのあし郡朝倉村)

富士石という石がまた一つ、遠江の石神村にもありました。村の山の切り通しのところにあって、これも年々大きくなるので、石神大神として祀ってありました。多分富士山から持って来た小石であったと、土地の人たちは思っていたことでありましょう。(遠江国風土記伝 静岡県磐田いわた郡上阿多古村)

関東地方では秩父の小鹿野の宿に、信濃石という珍らしい形の石がありました。大きさは一丈四方ぐらい、まん中に一尺ほどの穴がありました。この穴に耳を当てていると、人の物をいう声が聴えるともいいました。これは昔この土地の馬方が信州に行った帰りに、馬の荷物の片一方が軽いので、それを平にするために、路で拾って挾んで来た小石が、こんな大きなものになったというのであります。(新編武蔵風土記稿 埼玉県秩父郡小鹿野町)

その信州の方にはまた鎌倉石というのがありました。佐久さくの安養寺という寺の庭にあって、始めて鎌倉から持って来た時には、ほんの一握りの小石であったものが、だんだん成長して四尺ばかりにもなったので、庭の古井戸の蓋にして置きますと、それにもかまわずに、後には一丈以上の大岩になってしまいました。だからすき間からのぞいて見ると、岩の下に今でも井の形が少し見えるといいました。(信濃奇勝録 長野県北佐久きたさく郡三井村)

こうしてわざわざ遠いところから、人が運んで来るほどの小石ならば、何かよくよくの因縁があり、また不思議の力があるものと、昔の人たちは考えていたらしいのでありますが、中にはまたもっと簡単な方法で、大きくなる石を得られるようにいっているところもあります。九州の阿蘇地方などでは、どんな小石でも拾って帰って、縁の下かどこかに匿して置くと、きっと大きくなっているように信じていました。やたらに外から小石を持って来ることを嫌っている家は今でも方々にあります。川原から赤い石を持って来ると火にたたるといったり、白い筋のはいった小石を親しばり石といって、それを家に入れると親が病気になるなどといったのも、つまり子供などのそれを大切にすることも出来ない者が、祀ったり拝んだりする人の真似をすることを戒める為にそういったものかと思います。
だから人は滅多に石を家に持って来ようとしなかったのですが、何かわけがあって持って来るような石は、大抵は不思議が現れたといい伝えております。奥州外南部の松ヶ崎という海岸では、海鼠を取る網の中に、小石が一つはいっていたので、それを石神と名づけて祀って置くと、だんだんと大きくなったといって、見上げるような高い石神の岩が村の近くにありました。(真澄遊覧記 青森県下北郡脇野沢村九艘泊)

隠岐島の東郷という村では、昔この浜の人が釣りをしていると、魚は釣れずに握り拳ほどの石を一つ釣り上げました。あまり不思議なので、小さな宮を造って納めて置きますと、だんだん成長して七八年の後には、左右の板を押し破りました。それで今度は社を大きく建て直すと、またいつの間にかそれを押し破ったといって、後にはよほど立派なお宮になっていたそうです。(隠州視聴合記 島根県周吉すき郡東郷村)

阿波の伊島という島でも、網をひいていますと、鞠の形をした小石が網にはいって上りました。それを捨てるとまた翌日もはいります。そんなことが三日続いて、三日めは殊に大漁であったので、その石を蛭子大明神として祀りました。それから一そう土地の漁業が栄え、小石もまたほこらの中で大きくなって、五六年のうちにはほこらが張りさけてしまうので、三度めにはよほど大きく建て直したそうです。(燈下録 徳島県那賀郡伊島)

こういう例はいつも海岸に多かったようであります。鹿児島湾の南の端、山川の港の近くでも、昔この辺の農夫がお祀りの日に潮水を汲くみに行きますと、その器の中に美しい小さな石がはいっておりました。三度も汲みかえましたが、三度とも同じ石がはいって来るので、不思議に感じて持って帰りましたところが、それが少しずつ大きくなりました。驚いてお宮を建てて祀ったといい伝えて、それを若宮八幡神社といっております。そうして御神体はもとはこの小石でありました。(薩隅日地理纂考 鹿児島県揖宿郡山川村成川)

沖縄県などで今も村々の旧家で大切にしている石は、多くは海から上った石であります。別にその形や色に変ったところがないのを見ますと、何かそれを拾い上げた時に、不思議なことがあったのであろうと思います。薩摩さつまには石神氏という士族の家が方々にありますが、いずれも山田という村の石神神社を、家の氏神として拝んでおりました。そのお社の御神体も、白い色をした大きな御影石の様な石でありました。昔先祖の石神重助という人が、始めてこの国へ来る時に道で拾ったともいえば、或は朝鮮征伐の時に道中で感得したともいい、これも下総の宮間氏の石の如く、草鞋の間に挾まって何度捨ててもまたはいっていたから、拾って来たという話がありました。しかし今日では運搬することも出来ない程の大石ですから、これもやはり永い間には成長したのであります。(三国名勝図会等 鹿児島県薩摩郡永利村山田)

石に神様のお力が現れると、昔の人は信じていたので、始めから石を神として祀ったのではないのですが、神の名を知ることが出来ぬときには、ただ石神様といって拝んでいたようであります。それだから土地によって、石のあるお社の名もいろいろになっております。備後の塩原の石神社などは、村の人たちは猿田彦大神だと思っておりました。その石などもおいおいに成長するといって、後には縦横共に一丈以上にもなっていました。普通には石神は路のかたわらに多く、猿田彦もまた道路を守る神であった為に、自然にそう信ずるようになったのであります。(芸藩通志 広島県比婆ひば郡小奴可おぬか村塩原)

常陸の大和田村では、後には山の神として祀っておりました。これは地面の中から掘り出した石と伝えております。始めは袂の中に入れるほどの小石であったのが、少しずつ大きくなるので、清いところへ持って来て置くと、それがいよいよ成長しました。それで主石大明神と唱えていたといい伝えております。(新編常陸国志 茨城県鹿島郡巴ともえ村大和田)

石には元来名前などはないのが普通ですが、こういうことからだんだんに名が出来るようになりました。伊勢石、熊野石が伊勢の神、熊野権現のお社にあるように、出雲石、吉田石、富士石、宇佐石なども、もともとそれぞれの神を祀る人たちが、大切にしていた石でありました。鎌倉石も多分鎌倉の八幡様の、お力で成長したものと考えていたのだろうと思います。しかしどうして来たかがよく分らぬ石には、人がまた巾着石とか袂石というような、簡単な名を附けて置いたのであります。
羽後の仙北の旭の滝の不動堂には、年々大きくなるという五尺ほどの岩があって、それをおがり石と呼んでおりました。おがるというのはあの地方で、大きくなるという意味の方言であります。(月之出羽路 秋田県仙北郡大川西根村)

備後の山奥の田舎にはまた赤子石というのがありました。それは昔は三尺ばかりであったのが、後には成長して一丈四尺にもなっていたからで、そんなに大きくなってもなお赤子石といって、もとを忘れなかったのであります。(芸藩通志 広島県比婆郡比和村古頃)

飛騨の瀬戸村には、ばい岩という大岩がありました。海螺という貝に形が似ているからとも申しましたが、地図には倍岩と書いてあります。これもおおかたもとあった大きさより倍にもなったというので、倍岩といい始めたものだろうと思います。(斐太後風土記 岐阜県益田郡中原村瀬戸)

播州には寸倍石という名を持った石が所々にあります。たとえば加古郡の野口の投げ石なども、土地の人はまた寸倍石と申しました。ちょうど郷境の林の中にぽつんと一つあって、長さが四尺、横が三尺、鞠の様な形であったそうですから、前には小さかったのが少しずつ伸びて大きくなったと、いい伝えていたものと思われます。投げ石という名前は方々にありますが、どれもこれも大きな岩で、とても人間の力では投げられそうもないものばかりであります。(播磨鑑 兵庫県加古郡野口村阪元)

大抵の袂石は、人が注意をし始めた頃には、もう余程大きくなっていたようであります。そうして土地で評判が高くなってから後は、ほんとうはあまり大きくはなりませんでした。前にお話をした下総の熊野石なども、熊野から拾って来た時は燧袋の中で、もう大きくなっていたというくらいでありましたが、後にはだんだんと成長が目に立たなくなりました。二十年前に比べると、一寸は大きくなったという人もあれば、毎年米一粒ずつは大きくなっているのだという人もありましたが、それはただそう思って見たというだけで、二度も石の寸法を測って見ようという者は、実際はなかったのであります。或は出雲の飯石神社の神石のように、もとはお社の中に祀ってあったといい、または筑後の大石神社の如く、以前のお宮は今のよりも、ずっと小さかったという話は方々にありますが、それは遠い昔のことであって、石の大きくなって行くところを、見ているということは誰にも出来ません。筍たけのこのように早く成長するものでも、やはり人の知らぬうちに大きくなります。ましてや石は君が代の国歌にもある通り、さざれ石の巌いわおとなる迄までには、非常に永い年数のかかるものと考えられていたのであります。つまりは一つの土地に住む多くの人が、古くから共同して、石は成長するものだと思っていた為に、こういう話を聴いて信用した人が多かったというだけであります。

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

sazanamijiro

Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

フリーエリア