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飛鳥の不思議な石文化と 「狂心」の斉明天皇

斉明天皇は、少々頭の狂った天皇だった・・・・などと書けば、お前はなんという失礼なことを言うのだ、けしからん、と怒られそうです。
しかしこのことは、正史たる「日本書紀」に堂々と載せられていることなのです。

『日本書紀』斉明2年の条に次のように記されています。

天皇は工事を好まれ、水工に命じて香具山の西から石上山まで水路を掘らせ、舟200隻に石上山の石を積み、流れに沿ってそれを引き、宮の東の山に石を重ねて垣とされた。当時の人はこれを非難して、「この狂心の渠の工事に費やされる人夫は三万余、垣を造る工事に費やされる人夫は七万余だ・・・・」

もちろん、人々が「狂心の渠」と非難したのであって、日本書紀がダイレクトに主張したことではありません。しかし、正史にわざわざ挿入するのは、間接的であれ「狂心」と認めていることになります。
斉明朝について、学者によっては「狂乱の時代」と呼ぶ人もいるくらいですから、昔も今も異常な時代と認識されていることになります。


斉明天皇の頭は本当に狂っていたのか?

私はそうは思いません。斉明天皇自身は、明確な目的と意義があるからこそ、大工事を計画したはずです。ただ、その思考回路が、今に至るまで我々には理解できていないというだけでしょう。この時代は、普通の歴史学の常識が通用しない時代だという前提で、次に進みます。

下は、謎多き飛鳥を代表する酒船石です。

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平成4年(1992年)に、この酒船石の北の斜面で石垣が発見され、斉明天皇の時代に記述される工事に該当する遺跡と推測されています。
酒船石へと登る坂道の途中には、こんな説明板もありました。

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今いるところは、斉明天皇が造らせた人造の丘だというのですから、よく考えるとすごい話です。
こんなブロック状の石を積み重ねたらしいのです。

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さらに平成12年(2000年)に大規模な発掘が行われ、砂岩でできた湧水設備とそれに続く形で小判形石造物と亀形石造物が発見されました。これら2つは水槽になっており、水を溜めたと推定されます。

見学は有料です。

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ちなみ上の丸い亀型の水槽は、説明していただいた方の資料では、禊の場として考えられているようです。

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中に入ったのは、斉明天皇自身だったのでしょうか?

ただこれによく似たものが、インドネシアにあります。

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酒船石とは何か?

『イサーンの大地走行2000キロプラス  ラオスと飛鳥の謎の石造物考』様のブログには、酒船石に似ている石造物として、下の写真が出ています。


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これは、ラオスのチャンパサック県にある世界遺産、ワットプーにある「ワニ石」と呼ばれる謎の石だそうです。この石の凹形の中に生贄の人間が入れられ「人身御供」に供されたとの言い伝えがあるとか。

そういえば、昨日引用した小川光暘氏は、『黒潮に乗ってきた古代文化 石造遺物の謎を追って(NHKブックス) 』の182ページで、人間が酒船石の溝に合わせて寝ている写真を掲載されています。
「この場でカミに生き血を捧げる人身御供の儀礼があったことはこれにて実証されたことになる」ということですが、おぞましいので次。

『イサーンの大地走行2000キロプラス  ラオスと飛鳥の謎の石造物考』管理者の「ふうみん」様は、

ワニ石と酒船石は見た目は異なるが、基本的な構造は同一と思考する。ということは、二つの石は同じ目的で造られた凹状に加工された石。
これは、ヒンドゥー教のソーマ酒(アムリタ=不老不死)の製造装置と考える。


と、松本清張説に沿った推理を展開されています。伝播経路として、
「2世紀頃から南シナ海のモンスーンの周期性が航海にとりいれられ、「海のシルクロード」を介して海洋民族のチャム人が黒潮の流れに乗って日本列島に来日していた可能性は大きいと考える。」
とも述べられています。


なおこの酒船石は、カンボジアなどにも類似の石造物があると言われ、日本国内の特異で一時的な文化として、店晒しにするだけでは済まないものを含んでいます。


再び斉明天皇

『日本書紀』にはこんな記述があります。

「八月一日、天皇は南淵〈みなぶち〉の川上においでになり、跪〈ひざまづ〉いて四方〈よも〉を拝し、天を仰〈あお〉いで祈られると、雷鳴がして大雨が降った。雨は五日間続き、天下はあまねくうるおった。国中の百姓は皆喜んで、『この上もない徳をお持ちの天皇である』といった」(現代語訳)。

日照りで人々が困っていた時、蘇我蝦夷が関わった雨乞いでは微雨のみで効果がなかったため、斉明天皇が天に祈ると雷が鳴って大雨が五日間続いたというのです。どう考えても卑弥呼級のシャーマンですね。

一方、唐の膨張政策、朝鮮半島の政変、軍事介入と百済の滅亡など、激変の東アジア情勢の中で国益を守ろうとした姿は、神功皇后のモデルとも言われます。文末に、ウィキベディアを元にして制作した年表を入れましたが、国内外を問わずさまざまな異文化と接していることが読み取れます。東アジアの戦乱の中では、おそらくかなりの数の外国人、それも中国や朝鮮以外の人たちも流入していたでしょう。そもそも唐との戦争にあたっては、唐周辺の国家の情報もかなり詳しく入っていたと思います。


元の酒船石に戻ります。

私は、一方でシャーマン、一方でインターナショナルな情報に接していた斉明天皇は、東アジアだけでなく、広く東南アジア発の祭儀を含めた中で、自らの祭祀スタイルを追求していたのではないか。ひょっとすると、敵対する唐の文化である道教系祭祀を排除または薄めて、日本独自の新たな祭祀様式を模索していたのではないか、そしてそのために異質な石の祭祀文化を導入したのではないか、そんな気がします。


もし、中国や朝鮮の模倣ではなく、日本という国家のアイデンティティを新たに確立するためにしていたとしたら、たとえ企画倒れだったとしても「狂心」などと正史たる『日本書紀』が記すのは、斉明天皇に対して失礼だと思います。


史料・斉明天皇年譜(対外的記事のみ)

斉明天皇元年(655年) 7月11日 - 北の蝦夷99人・東の蝦夷95人・百済の調使150人を饗応。
8月1日 - 河辺麻呂が大唐から帰国。

斉明天皇2年(656年・63歳)
8月8日 - 高句麗が大使に達沙、副使に伊利之、総計81人を遣わし、調を進める。
9月 - 高句麗へ、大使に膳葉積、副使に坂合部磐鍬以下の使を遣わす。
飛鳥の岡本に宮を造り始める。途中、高句麗、百済、新羅が使を遣わして調を進めたため、紺の幕を張って饗応。やがて宮室が建ったので、そこに遷幸し後飛鳥岡本宮と名付けるが、岡本宮が火災に遭う。 香久山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を巡らせた。

斉明天皇3年(657年・64歳)
7月3日 - 覩貨邏国(とからのくに)の男2人・女4人が筑紫に漂着したので、召す。
7月15日 - 須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行なった。暮に覩貨邏人を饗応。
9月 - 有間皇子が狂を装い、牟婁温湯に行き、帰って景勝を賞賛した。天皇はこれを聞いて悦び、行って観たいと思う。
この年 - 使を新羅に遣って、僧の智達・間人御厩・依網稚子らを新羅の使に付けて大唐に送ってほしいと告げる。新羅が受け入れなかったので、智達らは帰国。

斉明天皇4年(658年・65歳)
4月 - 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応。
7月4日 - 蝦夷二百余が朝献する。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与える。
7月 - 僧の智通と智達が勅を受けて新羅の船に乗って大唐国に行き、玄奘法師から無性衆生義(法相宗)を受ける。

斉明天皇5年(659年・66歳)
3月10日 - 吐火羅人が妻の舎衛婦人と共に来る。
3月17日 - 甘檮丘の東の川辺に須弥山を造り陸奥と越の蝦夷を饗応。
3月 - 阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
7月3日 - 坂合部石布と津守吉祥を唐国に遣わす。

斉明天皇6年(660年・67歳)
1月1日 - 高句麗の使者、賀取文ら百人余が筑紫に到着。
3月 - 阿倍比羅夫に粛慎を討たせる。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。
5月8日 - 賀取文らが難波館に到着。
5月 - 勅して百の高座と百の納袈裟を作り、仁王般若会を行う。皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻を作る。阿倍比羅夫が夷50人余りを献じる。石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎47人を饗応。国中の百姓が、訳もなく武器を持って道を往来。
7月16日 - 賀取文らが帰る。覩貨邏人の乾豆波斯達阿が帰国のための送使を求め、妻を留めて数十人と西海の路に入る。
7月 - 百済が唐と新羅により滅亡。
9月5日 - 百済の建率の某と沙弥の覚従らが来日。鬼室福信が百済復興のために戦っていることを伝える。
10月 - 鬼室福信が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、援兵を求め、皇子の扶余豊璋の帰国を願う。天皇は百済を助けるための出兵を命じ、また、礼を尽くして豊璋を帰国させるよう命じる。

斉明天皇7年(661年・68歳)
1月6日 - 西に向かって出航。
4月 - 百済の福信が、使を遣わして王子の糺解の帰国を求める。
5月23日 - 耽羅が初めて王子の阿波伎らを遣わして貢献。





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コメント

カンボジアなどにも類似の石造物があると言われ

>なおこの酒船石は、カンボジアなどにも類似の石造物があると言われ、日本国内の特異で一時的な文化として、店晒しにするだけでは済まないものを含んでいます。

〇記事と写真、拝見しました
 謎解き、面白いですね。ご指摘のとおりだと思います。
 巨石文化の解明も、南方マレー系民族の影響を考えると分りやすい感じがします。

酒船石

酒船石はワタクシも世界遺産研究の会のツアーで見学に行きました。
斉明天皇の項、しっかり読ませて頂きました。有難うございました。

Re: 酒船石

ヨリック様

世界遺産研究の会というのは面白そうですね。きっと随分いろいろなところを周られたのでしょうね!(^^)!
酒船石は何度見てもミステリアスで、いろんな想像ができるところが楽しいです。思い付き程度の粗雑な推論でお恥ずかしい次第ですが、またよろしくお願いいたします。

Re: カンボジアなどにも類似の石造物があると言われ

レインボー様

どうも外来文化というと、中国朝鮮かシルクロード経由の西アジアばかりが脚光を浴びていて、マレー系があまり表に出てこないのはおかしいですね。学者さんたちの思い込みがあるのでしょうか。その上そもそも巨石文化と言うと、出世できない学問分野のようですから、草の根の研究で積み上げるしかないのかもしれませんね。
またご示唆ありましたら、よろしくお願いいたします。

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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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