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吉備の楯築遺跡とケルト文化・奇妙な類似点は偶然か?

「信じるか信じないかは、貴方次第!」というレベルの話なのですが、まあ頭が柔軟でお時間の許す方は、ちょっとお付き合いください。


このブログには、磐座信仰や古代巨石信仰がたくさん出てきます。撮影した地点の数で言えば、おそらく日本で20番目くらいには入る物好きマニアだと思っているのですが、その私が「これはありえない!」と思うのが、前にも書いたように岡山県倉敷市の楯築遺跡(たてつきいせき)です。説明のしようがないのです。

ここは王墓山丘陵の北側に、弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された、この他方の王の双方中円形墳丘墓です。
直径約43メートルの主丘に方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで、同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級とされます。

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ところがこの頂上には、木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、そのうちのひとつは異様な様相なのです。不安定でウチワのような薄さ。長い年月の間には、地震も台風もあったでしょう。それでも倒れないというのは、かなり深く差し込まれている、即ち見えているよりかなり大きな岩だということです。古墳の上ですから、自然の節理や風化で偶然できたものではありません。では何のために立てたのか。

先日、下の本を読み返していたら。よく似た挿絵がありました。

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説明には、こう書かれています。

ドルイド教徒が、ペルシアに造ったサークルおよびメンヒル。

ドルイド教とは、キリスト教の布教以前に存在したケルト社会の原始宗教で、そこでは「 全ての自然に、神(精霊)が宿っている」と考えられていました。唯一神を信じるのではなく、大地に宿る諸々の霊魂、山や河や森の神々、雷のような自然の諸力を祭り、祈るのですから、日本人と似ていますね。

ちなみに2010年イギリスの慈善団体委員会が、ドルイド教による自然霊の招魂儀式を宗教活動であると承認した、というニュースがありました。他の主要な宗教団体が有しているのと同様な資格が与えられ、ドルイド教は税法上の特典を保証されたとか。数千年たってやっと公認の宗教となったというのも、日本では考えられない話です。

なおC・W・ニコルさんは自ら「僕はケルト人です」と言われています。ケルトの国はゲルマン人やアングロサクソン人に支配されているとも。



ところで、楯築遺跡の墳丘上には、大正時代の初め頃まで楯築神社が鎮座していました。そこにはこの遺跡から出土したご神体で、神石(亀石)と呼ばれる毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていました。他の地方には、こんな奇妙なものはありません。

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同じ本の別のページには、こんなスケッチがあります。

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これもまた似ていると思うのは、私だけでしょうか。


「吉備の古代遺跡と古代ケルトの関係? そんなの妄想だよ」
と言われそうですが、さらにまだ相似点がありました。


『ヒロさん日記』様のブログの2006年01月16日付
桃太郎に退治された、吉備津国の「鬼の名前」という記事から文をお借りします。

温羅(うら、おんら )

 第10代崇神天皇のころ(第11代垂仁天皇のころ)、吉備の国に百済の王子と名乗る容貌魁偉の温羅がやってきた。温羅は新山(総社市)の“鬼の城(きのじょう)”を居城として悪事を働いて人々を困らせたために、朝廷から討伐軍を送られるがこれを負かしてしまう。そのため朝廷は、次に五十狭芹彦命を派遣した。
命は、温羅の投じる岩に対して2本の矢を同時に射て温羅の左目を射抜く。温羅が雉に変化して逃げたので命は鷹に変化して追い、また温羅が鯉に身を変えてさらに逃げたので命は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。
命は温羅の首をはねてさらしたが、温羅は首だけになっても唸り声をあげ続け、命はその肉を犬に食わせてそれでも唸り声はやむことが無かったたため吉備津宮の釜殿の釜の下に埋めたが、やまない唸り声は13年に渡って釜を鳴らし続けた。
そしてある日、命の夢に温羅が現れて「釜で神にささげる食物を炊け、釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴り、禍が訪れるなら荒々しくなるだろう」と告げたため、命はその通りにした。これが、吉備津神社につたわる釜鳴神事のおこりである。

これとそっくりの話がケルト神話にも見られる。

 たとえばウェールズ人の話には、「水底の国」に住んでいたグウィオン・バックという英雄がでてくる。<中略>ケーリッドウェンは一面では穀物と豊穣の守護神であり、他面では詩と文学の女神であった。かの女神は巨大の釜をもっていて、この釜でもって知と霊感を調合してみたいと思いたった。<中略>
かの女神はわが英雄グウィオン・バックにかの大釜をかきまわさせる一方、モルダという名の盲人に火の番をさせた。そして1年と1日のあいだ絶えず煮えたぎらせ見張っていろと命じた。<中略>やがてその1年の終わりも近づいたある日、ケーリッドウェンが草を摘みながら呪文を唱えていると、はからずも魔酒の3滴が大釜から流れだし、グウィオン・バックの指のうえに落ちた。ひどく熱かったため、思わずその指を口にふくんだ。<中略>はげしい恐怖に襲われたグウィオン・バックは、自分の領地へ向かって一目散に逃げ出した。<中略>
ケーリッドウェンはもどってくるなり、この1年間の苦労がことごとく水泡に帰したのに気づいた。そこで薪の1本をつかんで盲のモルダの頭をおもいきり撲りつけたので、片眼が頬まで飛びだした。<中略>
かの女は急いでかれのあとを追った。グウィオン・バックはそれを知るとすぐ野兎に身を変えて逃げたが、かの女も猟犬に変身して追ってきた。そこでグウィオン・バックは川へ走り魚になったが、またすぐにかの女も牝川獺(メスかわうそ)に姿を変えて水底まで追ってきたので、やむなく今度は空飛ぶ小鳥に変身した。しかし追手は鷹になってあとを追いかけ、逃げる者に少しの休む暇もあたえなかった。


いわゆる「呪的逃走」という話だが、吉備津の「桃太郎」と「百済の怪人」では、以下のような変身がある。

•「百済の怪人」→「雉(きじ)」→「鯉(こい)」

•「吉備津彦命こと桃太郎」→「鷹(たか)」→「鵜(う)」

変身合戦である。一方のグウィオン・バック(Gwion-Bach)では、豊穣の釜焚き女神ケーリッドウェンに追いかけれられる。

•「英雄グウィオン・バック」→「野兎」→「魚」→「小鳥」

•「女神ケーリッドウェン」→「猟犬」→「牝川獺」→「鷹」

「百済の怪人」が片目をつぶされる話と、「大釜の番人モルダ」が女神に撲られて片眼が飛び出してしまう話も似ている。どちらの話にも豊穣神話にからむ「大釜」が登場するところもそっくりだ。


つまり、伝説もまた、ケルトに似ているのです。単なる偶然でしょうか。


「片目をつぶす」というのは、柳田国男にかかわる記事でのべました。
北海道アオサギ研究会の松永克利様は、「イメージとしてのアオサギ」の中で、こんなことを書かれています。

キリスト教がヨーロッパを席巻する以前は、ヨーロッパは自然崇拝のケルト人の土地で占められ、地方によってはドルイド僧(神官)がアオサギをシンボルとしていたそうです。そして
ドルイド僧は魔術を用いる時、片方の手で片目を塞ぎ片足で立つ、いわゆる「サギのポーズ」と呼ばれる姿勢を用いていた。この姿勢を取ることで意識を集中させパワーを集めることができるのだという。

ケルトの祭事の時の「片目片足」、これは神道でイケニエの目をつぶし、片足を折るということと、何か関連があるかもしれません。


なお、イギリスにあるストーンヘンジなど、巨石文化とケルトの関係はいろいろあります。ケルト人が造ったかどうかはともかく、それを利用していたことは確かだと思います。
楯築遺跡の近くには、吉備津彦神社が鎮座していますが、ここは太陽信仰と巨石(磐座)信仰のお社です。

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岩石を組み合わせて作った池の島とその上のストーンサークルなど、もっと注目すべきだと思っています。

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  ☆

参考①
2013年3月にテレビ東京系列で「世界遺産“三大迷宮”ミステリー」という番組がありました。

・安芸の宮島、厳島神社の高舞台での舞楽「抜頭(ばとう)」はペルシャ人の物語であること。
・太秦(うずまさ)にある渡来人、秦氏のゆかりの神社「木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)」には三本足の鳥居の中に祀る神がゾロアスター教と合致する。それは水の中に建てられていた。
・祇園祭の山鉾の懸装がペルシャ絨毯。代表者も、ペルシャ一帯の文化は祭りの思想に大きな影響を与えたと証言
・出羽三山神社を開山したのは、聖徳太子のいとこ、蜂子王子で、肖像画は顔は真っ黒で、鼻が異様に高く異相の人である。見慣れた聖徳太子の肖像画は、中国・莫高窟の壁画を真似て書かれたものだという。

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というような根拠から、平清盛と聖徳太子と秦河勝は、先祖が同じペルシャ人だと結論。


参考②
1966年8月に、平城宮跡・東南隅の築地塀の「雨落ち溝」で出土した1万3000点の木簡のうちに、「破斯」の文字があり、ペルシャ人の役人がいたことが判明。
役人を養成する「大学寮」の宿直勤務に記されていたそうです。
ペルシャ人の役人が平城京で宿直とは、まさに国際的な都だったのですね。


参考③
ネットでは、「ドルイド教」が後に「ゾロアスター教」となり、この「ゾロアスター教」 の神官が「秦氏」となって日本にやってきたもので、「空海」もまたこの「ゾロアスター教」を「 密教」として広めていったという説もありました。

ちなみに、楯築神社の西、10kmほどには、「秦」という地名がありました。




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コメント

南方系マレー民族との関連

>岩石を組み合わせて作った池の島とその上のストーンサークルなど、もっと注目すべきだと思っています。

〇確かにイギリスのストーンサークルに似たところがありますね。
 小生の愚推ですが、場所と2~3世紀の遺跡であることから考えると、マレー系民族の影響がある感じがします。
 海洋系マレー系民族を広くとらえますと、イースター島のモアイ像の巨石文化まで繋がると言われております。
 草々

Re: 南方系マレー民族との関連

画像検索していたら、インドネシアにはいろいろ巨石文化があることかわかりました。日本や朝鮮半島に影響した石の文化があったのかもしれませんね。どうもヨーロッパ中心のユーラシア大陸の情報ばかりが多くて、そっちに注意が向きすぎのような気がしました。また勉強します。ありがとうございました。

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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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