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源実朝の遙かなる夢 ・ 実朝暗殺と興国寺

(続き)

今日は、真っ白い白崎海岸と源実朝暗殺が、いったいどう関わっているのかを書きます。

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実朝の哀しげな歌

源実朝は、源頼朝の次男です。兄である2代将軍頼家が北条家の手によって暗殺されたため、わずか12歳で3代将軍となりました。しかし彼が将軍の座に着いたときにはもはや政治の実権は北条家に握られ、将軍と言えど北条家のあやつり人形の域を出ませんでした。あやつり人形であることを拒否すれば、おそらく兄に続いて自分も…という悲痛な運命を彼は予感していたのでしょう。

辞世の歌といわれる句がこれです。

出でていなば主なき宿と成りぬとも
軒端の梅よ春をわするな

(現代語)
この先たとえ主人である私に何かがあっても、軒端に咲いている梅よ、どうか春を忘れずに花を咲かせておくれ。


暗殺を予見したとしか思えない、あまりに悲しい句です。

小倉百人一首にも採られたこの歌(93番)も、どこかもの悲しい気がします。

世の中は 常にもがもな 渚こぐ
海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手かなしも

(現代語)
変わりやすい世の中ではあるが、ずっと平和であってほしいことだ。この海辺は平穏で、渚を漕ぎ出す小舟が引き綱を引いている光景が、しみじみと愛しく心にしみることだ。


やがて来るXデーを思い、穏やかで平安な日々が続くことを渇望していたのでしょうか。


遥かなる船出の夢

そんな中、1217年に、東大寺の大仏再建に功績のあった宋人、陳和卿(ちんなけい)が鎌倉を訪れ、実朝と会見します。実朝の顔を見るなり、陳和卿ははらはらと涙を流しました。

不審に思った実朝が理由を聞くと、陳和卿はこう答えます。
「将軍さま、あなたの前世は、宋の国の医王山(いおうんぜん)の長老です。 私は、その方にお仕えしていたのですから、間違いございません。」


ウィキペディア「源実朝」には、こう端的にまとめられています。

6月8日、東大寺大仏の再建を行った宋人の僧・陳和卿が鎌倉に参着し「当将軍は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」と述べる。15日、御所で対面すると陳和卿は実朝を三度拝み泣いた。実朝が不審を感じると陳和卿は「貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。」と述べる。実朝はかつて夢に現れた高僧が同じ事を述べ、その夢を他言していなかった事から、陳和卿の言を信じた。

11月24日、前世の居所と信じる宋の医王山を拝す為に渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元は頻りにそれを諌めたが、実朝は許容しなかった。建保5年(1217年)4月17日、完成した唐船を由比ヶ浜から海に向って曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。なお宋への関心からか、実朝は宋の能仁寺より仏舎利を請来しており、円覚寺の舎利殿に祀られている。5月20日、一首の和歌と共に恩賞の少なさを愁いた紀康綱に備中国の領地を与える。詠歌に感じた故という。6月20日、園城寺で学んでいた公暁が鎌倉に帰着し、政子の命により鶴岡八幡宮の別当に就く。また、葛山景倫にこの時渡宋を命じていた。



ここから下は、私の想像です。
実朝はある日、信頼する側近、葛山景倫(かずらやま かげとも)をこっそり呼び出します。

「のう景倫、人払いまでしてそちを呼んだのは、大事な要件を頼みたいと思うたからじゃ。」

「殿の仰せならば、今すぐ命でも差し出しまする。何なりと。」

「宋へ渡ろうと思う。その算段を頼みたい。」

「は? まさか殿は、あの陳和卿なる宋人の言葉を真に受けておられるのでは。武家の棟梁、征夷大将軍であられるだけでなく、近々右大臣にまでなられようかという高貴な御身。船が難破でもしようものならこの国はどうなりまする。」

「・・・実はな、医王山の長老という話、夢の中で出会った高僧に言われたことがあるのじゃ。あまりに不思議な夢ゆえ、気にもかけず誰にも話しておらんのに、陳和卿なる宋人は同じことを話した。わしはそれを確かめに、ぜひ医王山へ行ってみたい。」

「しかし殿・・・・。」

「このごろ、兄の頼家殿の夢を見る。無残な最期をな。わしもあの世から、もう呼ばれているのかもしれん。次の将軍は、公家から迎えることも内々決めておる。幼き頃よりこの座に座り、有象無象の輩の相手をするのにも疲れた。どうじゃ、わしの夢をかなえてくれぬか。」

「・・・・殿のお覚悟、よくよくわかりました。確かに、北条義時様でさえ、一寸先は闇じゃと言うておられました。この景倫、命に代えても、殿とともに宋へ参りまする。」

「ありがたい。持つべきものは、よい家臣じゃ。では、陳和卿に、大船を造れと申し渡せ。」


とまあ、こんな具合だったのでしょうか。勝手な想像でした。

さて、5カ月にわたる作業の末、由比ヶ浜に、巨大な舟が完成しました。しかし、大勢で引いて海に浮かべようとしますが、結局動かすことはできなかったそうです。もはや運命は定まっていたのですね。

周囲はおそらくあきれ果てたでしょうが、実朝はあきらめません。そこで今度は、葛山景倫をまず宋に行かせることにしました。

命を受けた葛山景倫は博多に行き、宋へ渡る準備に奔走します。ところが、その葛山五郎景倫のもとに届いた悲報。
そう、実朝暗殺です。しかも実朝の首は暗殺者の公暁が持ち去って行方知らず。

葛山景倫のショックは、想像してあまりあるでしょう。
落胆した彼は高野山で出家し、名を願性と改めました。そして同じ近臣であった鹿跡二郎が掘り出したという主君の頭骨を預かり、供養に勤めていたと伝えられます。その忠義を伝え聞いた北条政子から紀州由良の地頭職を賜り、寺院を建立したのが、興国寺の前身、西方寺でした。

では、現在の興国寺をご覧ください。

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次は天狗堂です。

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昔、本堂などが火災に見舞われた際、天狗が現れ一夜にして寺を建て直したと伝えられています。天狗さんも味方ですね。



さて、興国寺の旧名「西方寺」の西方は、西方浄土に通じると言われています。実朝を思う願性(葛山景倫)の忠義な心がうかがえます。

さらに願性は、宋の雁蕩山に埋葬して欲しいという主君の生前の願いを叶えるため、高野山金剛三昧院で知り合った僧、心地覚心(しんち かくしん)の渡宋を援助し、分骨を依頼しました。さらに正嘉2年(1258年)には、宋より帰国した心地覚心を開山として寺に招いたのです。

下の地図をご覧ください。興国寺から西方浄土の方向、すなわち真西をたどると、白崎に至ります。





これに関し、大阪の四天王寺の日想観は以前に記事にしています。春分・秋分の太陽は、四天王寺の真西の門に沈みます。それを見ながら、大勢の僧侶の読経やお話があるのです。これは毎年多くの人でにぎわいます。

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ウィキペディア 「宋 (王朝)」を検索すると、「仏教」の項でこんな記述がありました。

仏教[編集]

唐代は儒仏道の中で最も隆盛を誇った仏教だが、唐代に主流だった経典解釈を中心とする仏教は宋代では振るわず、士大夫層には自己言及的な禅宗が、民衆層では阿弥陀如来の救済を求める浄土教が盛んとなった。

阿弥陀仏の浄土は西方に在するとされるが、日の沈む(休む)西方に極楽(出典まま)があるとする信仰の起源はシュメール文明にあり、ほかの古代文明にもみられるとされる[4][要検証 – ノート]。極楽にたどりつくまでに"夜見の国"などを通過しなければならないという一定の共通性もみられるとされる[5][要検証 – ノート]。



浄土教で浄土といえば「西方極楽浄土」です。日本でも中国でも、西方浄土は仏の方角です。少なくとも春分と秋分の日には、願性は白崎の西端に立ち、沈みゆく夕日のさきに宋と浄土と主君を重ね合わせたにちがいありません。白は、浄土の色だったのでしょうか。少なくとも白崎の景観は、ありふれた海岸と違う、不思議な世界であることは確かです。白蛇や白馬が神の使いならば、白い大地は神仏に縁のある地として認識されていたかもしれません。

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ちなみに、三陸を代表する景勝地の1つ、岩手県宮古市にある浄土ヶ浜も、白い海岸です。

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しかし何よりも、『白』は源氏の色でした、運動会の「赤組、白組」や「NHK紅白歌合戦」のように、赤対 白の対抗戦の元となったのは、平氏が「赤旗」、源氏が「白旗」を味方の目印として掲げたのが始まりとされます。
あるいは、『平家物語』(巻十一)の壇ノ浦の戦いのくだりには、源氏の船に上空から白旗が舞い降りてきたため、義経が八幡大菩薩の出現だと喜んで旗を拝んだ、と言うエピソードがあります。

源氏最後の将軍の菩提を弔うのに、西の果ての白い大地が選ばれたとして不思議はありません。そのため、白い大地を西に拝める興国寺の位置が決められたのではないでしょうか。

そして白崎の沖合の海は、元暦2年(1185年)、熊野別当湛増率いる200余艘の軍船に乗った熊野水軍勢2000人(一説では300艘3000人)が壇ノ浦の戦いへ向かい、源氏の勝利を導いた、その故郷の海なのです。本来平家方だった湛増が源氏方として大船団を率いて船出した海。ここは源氏政権の始まりを告げる海でした。
さらに義経の家来である弁慶は、熊野別当湛増の子とされるなど、このあたりが源氏と関係の深い地域・海域であることは間違いありません。



さて、四天王寺の日想観には、真西の鳥居と門に沈む夕日を拝もうと、善男善女が詰めかけます。通勤電車並みの混雑で、カメラポジションを確保するのが一苦労。

朱に染まる夕陽の彼方は大阪湾です。
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しかし願性は、おそらくたった一人でこの岬の突端に立ち、朱に染まった夕日が落ちて闇が支配するまで、この海の先を見続けたと思います。

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実朝様へ
後の世の正岡子規という人は、柿本人麻呂以降最高の歌人は実朝様であると言い切りました。本来京の雅の中で、和歌とともに生きるべきあなたは、心ならずも武家の棟梁となり、悲しい最後を迎えられました。しかし、よい家来をお持ちになった。ほんとに最後まで忠義な家来をお持ちになってよかった。こころからそう思います。


白崎から見る夕景です。願性もこのような景色を見て涙したのでしょうか。

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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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