記事一覧

巨匠 重森三玲と松尾庭園・日本庭園の源流は巨石磐座信仰か?

(昨日の続きです)

昭和を代表する庭園家、重森三玲氏の遺作である松尾大社の松風苑をご覧ください。
松風苑は3種類の庭園からなりますが、まずは、鎌倉時代風に蓬莱島を模した「蓬莱の庭」から。

IMG_9996_convert_20180206200118.jpg

IMG_0012_convert_20180205115226_2018020618494540b.jpg

P1580301_convert_20180205115717.jpg



つぎは、平安時代風に清流が流れる様を模した「曲水の庭」です。

IMG_9900_convert_20180206195959.jpg

DSCN9042_convert_20180206184436.jpg

DSCN9044_convert_20180205113543_20180206184932a37.jpg

P2040006.jpg



最後は上古風に磐座を模した「上古の庭」です。

DSCN9068_convert_20180205114034.jpg

DSCN9074_convert_20180205114343.jpg

DSCN9067_convert_20180205113826.jpg


さて、重森三玲庭園美術館館長の重森三明氏といえば、重森三玲氏のお孫さんにあたる方で、三玲スピリッツを最もよく理解されている方です。その重森三明氏が、2004年に刊行されたLuca no.6 (エスクァイア臨時増刊号)のために執筆したテキストをWEB用に再構成した文のなかで、こう述べられています。


遺作になった松尾大社庭園・上古の庭はまさしく場の潜在力を最大限に引き出した作品であり、場と人間が一体となっていわば核融合的な爆発をおこしている重森三玲の最高傑作。荒々しくも静寂。それは不思議に古代と現代、優しさと厳しさなど、相反するものの一致を見せている。

実は私は、嵯峨野小学校の校区に住み、昔から松尾大社の氏子です。「昭和の時代に新しく作られた磐座風の庭園」なんて、そんなまがい物に興味はないという立場でした。小さい頃から松尾大社の裏山にはよく登り、悪ガキ連中の一員としてバチが当たりそうなこともしていました。ところが新たな庭園ができて有料となり、自由に駆け回ることができなくなったのです。そんな反発から次第に足は遠のき、初もうで以外は参詣する機会もなくなっていました。

しかし最近、「上古の庭」を見て、実は畏怖感さえ覚えました。本物の磐座のオーラが出ているとしか表現しようのない、不思議な感覚です。
特に、背後からのこの角度。

DSCN9079_convert_20180205114539.jpg



もともと松尾大社には、背後の山中に古来から祀られてきた巨大な磐座があります。松尾大社の歴史は、その磐座に対する祭祀から始まりました。考えてみれば、松尾大社の広い敷地の中で、この「上古の庭」が巨大な磐座にいちばん近い場所なのです。境内の明るい穏やかさや観光客の喧騒の届かない、もっとも静かで神聖な場所。重森三玲氏がここを「上古の庭」の場所に選んだことがやっと理解できました。



場面は変わります。
実は、この「上古の庭」に近い感覚を覚える庭園があります。
『松尾神社の謎・重森三玲と秦氏と磐座 2018/01/30』の記事に書いた、滋賀県東近江市の「松尾神社庭園」です。すこしくわしく写真を載せます。

DSCF3335.jpg

DSCF3365_convert_20180205111949.jpg

DSCF3339.jpg



この松尾神社には神職がおられず、神社敷地に食い込んだ立地の浜野会館が連絡先になっています。その浜野会館でいただいた、庭園の実測図を含む説明が下です。

DSCF8054.jpg

DSCF8052.jpg

実測した人の印が押してありました。

昭和拾壹年参月實測 重森 印

そうです、ここは重森三玲氏が昭和11年に発見し、丁寧に測量した庭園なのです。もし日本庭園を研究されている方がおられたら、重森三玲氏にかかわる有名な庭園だけでなく、浜野会館とこの庭園にも行かれることをお勧めします。なぜならこの庭園の周囲は、神道系の古い磐座がたくさんあるからです。

この庭園の右奥20mの斜面、本殿背後には、何度も載せましたが本家の松尾大社磐座を彷彿とさせる巨大な磐座が横たわっています。

_1580178_convert_20180130151220_201802061912192bd.jpg

古代はここに神様が降臨していたのです。

このような状況を無視して、単なる日本庭園として時代背景と作者のみの理解をしようとすると、おそらく日本庭園の本質からは外れてしまうと思います。


ではここで、重森三玲庭園美術館館長、重森三明氏の文を再度お借りしたいと思います。

元来、日本庭園の石組みの起源は磐座や磐境と呼ばれる古代の巨石(群)であり、よく神社の御神体になっている。庭園史において、石組みは古代中国の神仙蓬莱思想という、仙人が住み不老不死の薬が存在するという島を表したり、三尊石で仏の姿を表現した。枯山水の石庭を連想すると、石組みと「禅寺」を簡単に結びつけるが、日本庭園の始まりはもっと古く、古代にまでさかのぼる。元来、日本古来の山岳信仰と大陸思想の影響、更に古墳文化や浄土思想などが混ざりあいながらその時々の「庭」を形成していった。信仰心や時代の精神性とともに発展した日本庭園において、石組みの基本は神や仏を宿す躍動的な立て石にあったが、江戸中期を過ぎると石を寝かせて配置することが多くなる。重森三玲は昭和期において立石本意のモダンな枯山水の復興に努力し、抽象的な表現を模索しながら現代的な石組みを作り上げている。
(参考:保久良神社磐座、楯築神社遺跡、石像寺巨石群、阿智神社など、日本庭園の源流といわれる磐座や磐境には今もモダンを感じます。)



「磐座や磐境には今もモダンを感じます」というのは正直驚きました。私のような凡庸な人間には及びもつかない、芸術家の鋭い感性が素晴らしいですね。


さいごにもう一つ。
遺作となった松尾大社庭園は1975年。そのわずか3年前、1972年に完成したのが、兵庫県丹波市市島町中竹田の「石像寺」庭園です。
丹波市役所ホームページにはこう書かれていました。

石像寺の裏山に磐座がある。この由来によって村の名を岩倉といい、寺の名を石像寺としたようで、この地を信仰の対象として崇拝したのはもちろん、磐座を神格化し、神として祭祀したものである。
この磐座は高さ十数メートルの巨岩いくつかが一石群をなし屹立して、天を摩すような姿は神秘的であり、実に雄壮である。
山麓の石像寺境内には、江戸時代初期および中期に造られた庭園と昭和47年に築造された四神相応の庭があって、一帯が名勝地となっている。


この「四神相応の庭」が重森三玲氏の作であることは有名です。
2014年8月の丹波豪雨で本堂や位牌堂などが被災し、庭園にも大量の土砂が流れ込みました。地元の方のご尽力により、最近やっと修復が終わったそうです。背後の磐座と合わせ、そのうち改めて報告するつもりですが、過去の写真を1枚。

img_1[1]

本物の巨大な磐座の前に、石の庭園を造るという行為には、どんな深い思いがあったのでしょうか。
晩年の重森三玲氏が思う「日本庭園」とは、日本の伝統信仰に深く根差したものであったことは確かだと思います。



家計と休日予定をやり繰りして全国を回っております。よろしければ三つクリックしていただくと励みになります。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村


神社・仏閣ランキング

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

sazanamijiro

Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

フリーエリア