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松尾大社-比叡山の聖なるラインを近江でも発見!!

(昨日の続き)

京都の「松尾」と近江の「松尾」

秦氏が奉斎する京都の松尾大社は、大山咋神を祀っています。

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古事記には、大山咋神を「日枝山(比叡山)および葛野の松尾に鎮座」と記され、松尾大社周辺からは比叡山に夏至の朝日が昇ります。さらに比叡山と松尾大社を結ぶ線上には、太秦広隆寺や下鴨神社など、重要な地点が並んでいます。

同じように滋賀県東近江市の松尾神社から同じ角度の線を引くと、「依智秦氏の里古墳」をかすめて「秦川山」の山頂部に至ることを発見。
さらにその付近の地名は「松尾」で、名刹「金剛輪寺」の別名も「松尾寺」でした。





これをどう考えるか?

おそらくは、京都盆地の祭祀パターンを、近江に移植したのでしょう。
少し詳細に見ていきます。


八日市松尾神社の歴史

まずは八日市の松尾神社です。

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これが磐座でした。
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八日市松尾神社の社頭に立つ由緒書では、松尾大社より分霊が宝暦5年(1775年)とあります。
しかし、神社蔵の「勝山松尾大明神由緒書」によれば、正和元年(1312年)に松尾社再興とあり、かなり古くから松尾の名があったことが分かります。
上の磐座は、おそらく相当古くから土着の信仰として祀られてきた可能性があるでしょう。



比叡山延暦寺と慈覚大師

さて、比叡山と言えば、誰しもが延暦寺を思い浮かべると思います。
延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりで、以後融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行しており、「日本仏教の母山」とも称されている聖地です。

京都盆地における松尾-比叡山ラインが近江に持ち込まれたなら、延暦寺に関係する要素が近江の松尾-秦川山ラインにもあるのでしょうか?

やはりあるのです。秦川山麓の金剛輪寺が松尾寺とも呼ぶことは前述しましたが、このお寺は開祖こそ行基菩薩とされるものの、

平安時代の初めには、比叡山より慈覚大師が来山、天台密教の道場とされて以来、延暦寺の末寺、天台宗の大寺院となりました。

と金剛輪寺のホームページにはっきり書かれています。

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慈覚大師(じかくだいし)とは、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人である円仁(えんにん)のことです。円仁(794年 - 864年2月24日)は、第3代天台座主として、天台宗を完成させた僧として知られます。



慈覚大師と新羅

円仁は遣唐使の一員として二度も渡航を失敗。三度目は船が座礁し、ずぶ濡れで上陸。その後も怪しい僧だと役所に突き出されてしまうなどさんざん苦労し、最終的に長安にたどり着くまで、通算2000Km近く歩いたというから驚きです。その波乱万丈の滞在時、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功し、最後に長安を去る時も、長安在留の新羅人たちがたくさん見送ってくれ、餞別までもらったそうです。
唐という強大な異国に暮らす新羅人と円仁の結びつきは、便利で安全な時代に生きる我々には計り知れないものだったと思います。



慈覚大師と秦氏

ここで話は京都の太秦に移ります。

国宝第一号とされる、太秦広隆寺の「宝冠弥勒像」は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いとされます。

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さらに蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのに対し、聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教を信奉していました。秦氏の出自が新羅系渡来氏族とすれば、唐に暮らす新羅人たちも、秦一族の船出伝説を知っていたと思います。いくら過去の出来事とはいえ、おそらくはものすごい数の人たちが、国を出て行ったのでしょうから。

唐の新羅人なしに、後の慈覚大師はありませんでした。昔のこととはいえ、新羅から仏教を携えて日本に渡り、黙々と平安京の土台を造った秦氏。その秦氏の松尾大社が、今度は近江に分霊され、低湿地の干拓や灌漑工事の守り神となっていたなら、慈覚大師がそれに協力するというのは、ありえる話だと思います。

なお、京都のメインストリート、四条通りの西端が松尾大社で、東端が八坂神社ですが、秦川山の麓にも「八坂神社」があります。社伝によると、天暦元年忌部仲廣の勧請とされ、この辺りの土地は古くは京都の祗園神社感神院の領地でした。


結論です。

平安京1200年の礎を築いた秦氏は、その経済力と優れた技術で近江にも進出したのでしょう。むろんそれは、平安京創設よりずっと古い時代から始まっていたのかもしれません。湖東平野の安定と発展のためには、力強い神仏のご加護が必要です。すでに成功した平安京の祭祀パターンを、東近江の地でも再現しようとしたのではないか。そして慈覚大師は、それが近江の地にもメリットがあると考え、平安京の鬼門を守る比叡山の役割を、東近江では金剛輪寺に託したのではないか。

東の比叡山、上野の東叡山寛永寺を徳川家光が建立する、そのはるか前に。



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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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