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石上神宮に連なる不思議な聖地・北極星が示す藤原氏への怨念

昨日、石上神宮のホームページは、ビジュアル面で極めてクオリティの高い内容だと書かせていただきました。
しかし、その中で、どうも不思議なイラストがあります。

「神話にみる石上神宮の神様」

において、北の夜空の北極星が描かれているのです。
石上神宮オリジナルの図をコピーするわけにはいきませんので、代わりに当家の宝物であるベンツを見ていただきます。背景はどうあれ、ベンツをご覧ください。
「お宝のある場所へ」のトレジャースポット様のポルシェに匹敵する名車だと勝手に思っています。

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(自慢のベンツをしっかり見ていただいたでしょうか(?_?)

さて、石上神宮の参道は西から東。東へまっすぐ歩くと、拝殿へは90度左折することになります。しかも右の摂社群の方が地形的に高い位置で、社殿は南面がいいとしても、いささか窮屈かつ不思議な配置です。
しかも、拝殿方向は南北軸からわずかにずれているにもかかわらず、北極星が中心にあるのは意図的です。

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たとえ七支刀が北辰信仰とかかわるとしても、社殿を規定するとは思えません。石上神宮と北辰信仰はほとんど結びつかないのです。にもかかわらず、北を拝む必要がどうしてもあったのでしょうか。
社殿の上の北極星を見ると、何か重要な意味がありそうに思うのですが、それは何か?


もう一つ。
ウィキペディアにはこうあります。
社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。

ところが、少なくともホームページには、武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣とは書いていません。葦原中国平定を導いた宝剣だという来歴は、説明上必要なはずなのに、すっぽり抜け落ちています。なぜ無視したのか?

この二つの謎ときをしたいと思います。



冥土院日本(MADE IN NIPPON)様ブログに
2007年05月29日付、「藤原氏と氏神」という記事があります。
すこしその中身をお借りします。

●祖神のすり替えと神話作り
鎌足の子に「藤原不比等」という政治の大天才がいた。後の1000年にも渡る藤原氏の栄華と繁栄の基礎は彼が築いたといっても過言ではない。娘を入内させることによって政治の実権を握る、藤原氏お得意の外戚政治を行ったのも彼が最初である。

また不比等は「古事記」「日本書紀」編纂にも、かなり影響力を与えていると言われている。不比等は記紀編纂にあたって、万世一系の天皇家の権威の確立と皇室を補佐する藤原氏の正統性を揺るぎなきものにするため、多くの氏族から伝承を集め、各氏族の領地の安堵との交換条件で、氏族伝承を買い取ったとも言われている。

日本書紀においては、伊勢の神宮と石上神宮のみが「神宮」と記載されていた。その後、平安時代に成立した延喜式においては、石上神宮に代わり鹿島神宮と香取神宮が「神宮」と記載され、江戸時代まで「神宮」を社号とする神社は、この3社のみであった。

本来物部氏が持っていた宮中の祭祀権も中臣氏によって独占され(中臣神道の成立)、石上神宮の神宮の名称が剥奪されたうえに、新たに中臣氏(藤原氏)の一族神として武甕槌・経津主二神が鹿島神宮、香取神宮に祭られたのではないだろうか。
(太字は管理人)



そもそも香取神宮に祭られている経津主神については、奈良の石上神宮に祭られている布都御魂神(ふつのみたまのかみ) と同じ神様であろうと、一般に考えられています。

下は、春日大社と三笠山です。

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なんだか共通するものを感じますが、先入観でしょうか・・・

結論です。
考えられる可能性のひとつ。
それは、藤原氏が、物部系の社である春日大社と神体山を、まるまる乗っ取ったのではないかという可能性です。

下の地図をご覧ください。





春日大社と石上神宮は、きっちり南北です。

南北に位置することの祭祀的な重要性は、長岡京や平安京を持ち出すまでもないでしょう。



無理に社殿が北を背にしていることと、北極星の絵図の謎は、かつて物部系であった春日大社と神体山の三笠山を向いているのではないか。藤原系の春日大社が厳然と存在する以上、沈黙せざるを得ないことへのレジスタンスではないのか。


春日大社は、春日氏にも関係します。日本書紀には次のような別伝が記されています。

垂仁天皇の時、その皇子である五十瓊敷皇子は茅渟の菟砥の河上で太刀一千口を造らせ、その太刀を初め忍坂邑に納め、次に石上神社に移し納めた。この時に神託があり「春日臣の一族である市河という者に治めさせよ」とあったので、市河に命じて治めさせた。この市河は今の物部首の祖先である。

和邇系の春日氏とも言われますが、いずれにしろ春日大社と物部氏は元々無関係ではなかったのです。



私は、北極星の示す真北に藤原氏の春日信仰があることを、強い憤りを持って拒否するあかしとして、昔から北辰の図を示してきたのではないか、それが最新の絵図に反映しているのではないか、そんな気がします。おそらく石上神宮の方は、笑って否定されるでしょうが・・・・・・


粗雑な論を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
さて、次回は、物部氏の怨念が爆発して、空海が乗り出したのではないかという東西軸の話です。


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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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