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神道のタブー 人身御供(いけにえ)・ちょっと閲覧注意

昨日の記事に、お雪さんが滝つぼに身を投げ、それを知った恋人も悲嘆にくれて行方知らずになった、という伝説を紹介しました。

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そしてこう書きました。

この伝説が単純な歴史的事実を記しているだけなのか、それとも、人間を神への生け贄とする、人身御供の古い記憶がこの滝にあって、後の世のエピソードが混淆してこの伝説が形成されたのか、それはわかりません。

人身御供の儀式が行われ、人身御供となった女性の恋人が自殺するというストーリーは、実は他の地域で語られているのです。

ということで、今日は「人身御供」について、またまた勝手なことを書かせていただきます。
「無学な一マニアが、また勝手なことを書いておるわい!」と笑って見過ごしていただけるといいのですが、神様を素直に崇敬されている善男善女の皆様には刺激が強いので、お読みにならないでいただきたいと思います。

ではそんなテーマをなぜ記事にするのか。それは、このブログが「社殿もない時代の原始信仰、自然信仰の姿」をテーマとしているからです。人身御供は、日本の神道の起源を研究する人々にとっては避けて通れない問題なのにもかかわらず、暗黙のタブーとなっています。


本題に入ります。

アステカ人は「太陽の不滅」を祈って、人間の新鮮な心臓を神殿に捧げました。生贄は石の台にのせられ四肢を押さえつけられ、生きたまま黒曜石のナイフで心臓をえぐり取られたとされます。
これは有名な話なので、ご存じの方も多いと思います。

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「アステカって、残酷だなあ!」
ところが、これは他人事ではありません。


ウィキペディアで「人身御供」を検索すると、次のような文が引用されています。

高木敏雄「日本神話伝説の研究」岡書院1925年5月20日発行525頁―527頁)

「坂戸明神の話に移る。久しい間の伝承で神聖にされた、馬鹿にできぬ儀式がある。祭祀の儀式としての人身御供の存在説を主張する者の提供した、或は寧ろ提供し得る證據物件の中で最も有力なるものである。 爼(マナイタ)と庖丁(ホウチョウ)、それから生きた實(実)物の人間、考えたばかりでも身の毛が立つ。爼と庖丁とが、果たして人間を神に供えた風習の痕跡だとしたらどうだ。犠牲を享ける神は、鎮守の社に祀られる神である。捧げるものは氏子の部落である。捧げられる犠牲は、氏子の仲間から取らなければならぬ。人身御供という風習の言葉の中には、久しい間の慣例と云うことの意味が含まれているではないか。

補足すると、このお社には人身御供の言い伝えがあり、古くはお祭の日に村人が集まって、くじ引きで、神さまの生贄(いけにえ)になる人を決めたといいます。

くじに当たった人は神前に用意された俎板の上に乗せられ、神主さんが刀を抜いて、あたかも魚を料理するような手つきで切る真似をしたのです。切る真似だけで、からだには全然触れないのですが、このくじに当たって人身御供になった人は、三年のうちに必ず死んだそうです。

昔からのお祭だから仕方がないとはいえ、みんな内心このくじ引きは止めたいと思っていたのですが、里見義堯がこの地を治めるようになってから中止になりました。その代りに、竹で作った八角形の一つ目のお面を被った人が馬に乗って、神輿の通る村々の道を走り、終わりにお面を捨てて、同じ道は通らずに帰って来るようにしたといいます。

柳田国男の民俗学に詳しい方なら、今、こう思われたはずです。
「一つ目のお面か、やはり元々は生贄の片目をつぶしていたんだな。」

おそらく、古い時代には実際に人身御供があったが、次第に簡素化、形骸化してきたと考えるのが自然です。


上記と関係があるのかどうか迷うのですが、例えば下の写真をご覧ください。



兵庫県多可町の山中、岩座神(いさりがみ)地域にある「血石」の看板です。

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谷川にあるこの岩自体は、何ということのない普通の岩です。ところがこの「血石」の伝説は、実に恐ろしげなものでした。

往時、神光寺の盛んであった頃、加古川流域の人々は死者が出ると、はるか南方から遺体を運んでこの寺に葬った。その際、死人はみな一度この石の上に置いたところから、血石の名が付けられたと言われる。また、一説には、死体があまりに重いので、この石の上で四肢を切り離して運んだため、その血でこの石が赤く染まったのだとも伝えられている

ふつうに亡くなった人を置いたからと言って、岩が血に染まるはずがありません。
さらに、死体が重いからバラバラにするって、死者を冒涜するそんな失礼な事を実際にするとは思えません。
考えうるのは、古い鳥葬の記憶か、あるいは人身御供の伝承か・・・・。

いずれにしろ、現代の我々からは想像もできない死の儀礼があったのでしょう。



次は、さらに根拠のない推理をします。我ながら妄想の類だと思うのですが、一応書いておきます。

下の写真の巨石は、本体のご神体(立石)の前に、あまりに大きな供物台が設置されています。我々が先祖のお墓に供えるようなものとは、全く違う巨大さです。むろん、これを祭祀台として、神職や巫女が上に乗って儀式を行っていた可能性もありますが、中には鹿や猪などの大物を捧げていた、あるいは人間が捧げられていた可能性もあると思っています。

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参考資料として、前述の、「ウィキペディア 人身御供」から抜き書きしておきます。

なおこの内容には、
「この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2015年4月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2015年4月)
正確性に疑問が呈されています。(2015年4月)
言葉を濁した曖昧な記述になっています。(2015年4月)


と注意がたくさんついています。笑ってしましました。ウィキの担当者(検閲者)さんは、タブーに踏み込んだ内容に困ったのでしょうか(笑)
最後には参考文献が21も列挙され、きわめて常識的です。



人身御供の行為は、特にアニミズム文化を持つ地域の歴史に広く見られる。人間にとって、最も重要と考えられる人身を供物として捧げる事は、神などへの最上級の奉仕だという考え方からである。

今日でこそ人権等の考え方から個人が尊重されているが、古代社会では人命は災害や飢饉によって簡単に失われる物だった。このため、気紛れな自然に対する畏怖のため、人身を捧げる風習が発生したと考えられる[独自研究?]。特に災害においては、自然が飢えて生贄を求め猛威を振るっているとして、大規模な災害が起こる前に、適当な人身御供を捧げる事で、災害の発生防止を祈願した。

特に日本では、河川が度々洪水を起こしたが、これは河川のありようを司る水神が生贄を求めるのだと考えられた。今日に伝わるヤマタノオロチ等の龍神伝承では、直接的に龍に人身を差し出したと伝えられるが、実際には洪水などの自然災害で死亡する、またはそれを防止するために河川に投げ込まれる、人柱として川の傍に埋められる等したのが伝承の過程で変化して描写されたと考えられている。

これらは後に人身を殺害して捧げる行為が忌避されるにつれ、人の首(切り落とされた頭)に見立てて作られた饅頭や、粘土で作った焼き物(埴輪・兵馬俑)等の代用品が使用されたり、または生涯を神に捧げる奉仕活動を行うという方向に改められるなどして、社会の近代化とともに終息していった。


中国について
中国では殷代の帝辛(紂王)以前には、さかんに生贄が捧げられた。この際には神の意思を確認したらしく、捕らえた異民族の処遇を占ったと見られる甲骨文字も出土している。また、殷代の墓から45人分の殉葬者の人骨が出土した例もある。更に異民族に限らず、殷墟の宮殿の基壇の跡から850人分の武装した軍隊の人骨が戦車(馬車)ごと出土しており、中には高い身分と思われる人物まで含まれていた為、殷の国民も人身御供の対象にされていたと推測されている。

戦国時代の魏では、西門豹が人身御供の儀式をやめさせ国を発展させた。

秦の始皇帝陵の副葬品である陶製の兵馬俑は、それが形を変えた名残りと推定される。



日本について 
事例をみると、中国の歴史書『三国志』の魏志倭人伝に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」邪馬台国の卑弥呼が死去し塚を築いた際に100余人の奴婢が殉葬されたとあり、『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したという(埴輪の起源説話であるが考古学的には否定されている)記載が残っている。 他にも、儺追祭(なおいまつり)の起源にまつわる話や、『日本書紀』に登場する茨田堤(大阪府)の人柱に関する記載、諏訪大社(長野県)の御柱にまつわる伝説、倭文神社(奈良県)の大蛇伝説など、人身御供にまつわる話は数多く残されている。


・・・・・最後までお読みいただき、ありがとうございました。
伝統信仰たる神道の源流の中には、さまざまな要素が含まれています。その多様性、今風に言えば「多文化共生」こそが、日本の神道の誇るべきところだと、私は思っています。いつもながら極めて根拠薄弱な推論ですが、「ばかばかしい」ではなく「ひょっとして」程度にでも読んでいただけたのなら幸いです。



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古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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