福岡県築上郡上毛町百留、崖面に横穴を掘り込んで造られた、百留(ひゃくどみ)横穴墓群です。


これは古墳時代のお墓で、現在49基が確認されており、穴の数が多いことから「百穴」と呼ばれています。中央に位置する1号墓には、赤色顔料(ベンガラ)による同心円文の彩色があります。



奥の玄室に遺体を安置し、遺体のまわりに装飾品・土器を配置、そして開口部を石などで蓋をしました。ひとつの穴から2人以上の遺体が発見され追葬(ついそう)がおこなわれたこともわかっています。








古墳というと、巨大な前方後円墳ばかりが有名ですが、それらは「超上級国民」である支配者層の文化で、大多数の中流~庶民クラスのお墓とは無関係です。
その意味で、何十人、何百人が葬られたこのような古墳は興味深いのですが、ネットでは詳しい説明がありません。どんな系統の葬送文化で、どんな祭儀思想が推測されるとかは、ほとんどわからないのです。
そこで詳しく調べると、国立研究開発法人科学技術振興機構 (JST) が運営する「科学技術情報発信・流通総合システム」のなかに、
『公州 丹芝里横穴墓群発掘調査概要 池珉 周』という論文を見つけました。2004年12月、九州大学大学院比較社会文化研究院基層構造講座において行われた、研究発表の要旨をまとめたものです。
韓国の公州丹芝里横穴墓遺跡で発見された23基の横穴墓に関して、
「これは朝鮮半島の横穴墓の構造的特徴と築造時期はもちろん,日本考古学界でこれまで模索されてきた日本列島の横穴墓の起源問題をはじめとする古代韓日関係研究に画期的な資料となる」と書かれ、さらに、
「公州丹芝里横穴墓の構造的特徴は日本列島の初期横穴墓である福岡県行橋市竹並・大分県上ノ原などの北部九州一円に集中して分布している横穴墓と類似する。その時期は5世紀後半~6世紀前半頃とされており,今まで知られる日本列島の横穴墓の中では朝鮮半島系遺物が副葬される例が少なくない。このような事実はこれまでベールに包まれていた日本列島の横穴墓の起源問題を解明することができる極めて重要な資料となり,今回の丹芝里横穴墓群の存在とともに,横穴墓の百済地域起源の可能性を積極的に検討する契機となるものである。」と結論されています。
ただし、この報告書には
「赤色顔料(ベンガラ)による同心円文の彩色」に類するものは報告されていません。日本国内の横穴についても、地域色がそれぞれ明確だと言われます。
いずれにしろ類似点や非類似点を含め、これらは朝鮮半島を含む東アジアの墓制の一環として位置付けるべきものでしょう。
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一方、以前にも載せた、鳥取市佐治町大井の
熊野神社遺跡。


熊野神社遺跡は、江戸時代前期の古文書、「稲葉民談記(いなばみんだんき)」「因幡誌(いなばし)」に記載され、熊野薬師、熊野三山信仰の遺跡として知られてきましたが、大正5年(1916)に口佐治神社に合祀され、廃絶しました。
しかし、この旧境内には見たことのない文化様式の古墳や石組が見られます。










鳥取市のホームページによれば、境内の積石塔(古墳)に関して
塚の形式が朝鮮半島の積石塚やインドネシアのボロブドウール仏教遺跡との関係をうかがわせます。と記されています。日本の神社における外国文化の影響を記しているという点で、大変重要な問題をはらんだ解説です。
また神蔵(石祠)については、
古代において巨岩は、神霊のとどまる場所とされ、神々の座す場所として崇拝されました。和歌山県熊野にも同様の大岩があります。と、ゴトビキ岩などと同等の巨石信仰だとしています。



奥の院には、
四人仏は、切り立った岸壁の窪みに祀られ、その上には、阿弥陀仏の顔面を思わせる巨石が位置しています。という説明が。

ここもまた、複雑で多様な信仰文化があったのでしょうか。
百留横穴墓群はよく原型をとどめていますが、そこにどんな儀礼や思想があったのかはわかりません。熊野神社はその詳しい信仰内容が知りたかったのですが、廃絶して遺跡として残るのみ。生きた信仰が分からず、とても残念です。
いずれにしろ、神社信仰であれ葬送儀礼であれ、時代により地域により、さまざまな多様性があったのでしょうね。

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