大分県の国東半島は、奈良や京都とは異なる、独自のミステリアスな伝統文化が花開いた地域だと思います。そしてその一つが、真玉町にある生目(いくめ)神社かもしれません。
平成初期に撮った古い写真をお数枚お見せしたことがありますが、現在の様子をしっかり写してきましたので、ご覧ください。


鳥居をくぐり境内に入ると磐座があり、社殿や石祠や石燈篭などはありません。まさに原始信仰そのままの貴重なお社なのです。





水鳥のようにも見えます。
首の部分はご神体のようですが、置かれているだけのようなのに、地震や台風にも耐えたわけですね。



この石は何でしょう?


これには、胎内くぐりや茅の輪くぐりの様な意味があるのでしょうか?
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この生目神社に祭られるのは、平家の武将である藤原景清です。
壇ノ浦の合戦に敗れた藤原景清は、日向(宮崎県)に落ちのびます。源氏に追われた景清は、自分の右目をくりぬいて氏神に奉納し、眼病の人を助けるよう願をかけます。
ところが源氏は、戦いを捨てた景清を捕らえて鎌倉へ連行しました。頼朝には源氏に仕えるよう言われますが、景清は小刀で残った左目をくりぬき、「もう役に立たないから放免を」と願って日向へ帰りました。
そして氏神に両目を奉納して、眼病に苦しむ人々の幸福を祈りながらこの世を去ったのだそうです。
能や歌舞伎などの古典芸能では、景清が登場する作品を「景清物」と呼びますが、そのストーリーはちょっと違います。
日向に流された景清は僧侶となって暮らしていたのですが、「源氏の繁栄する世を見たくない」と言い、自分の両目をえぐり取ってしまいます。
ところが後に、盲目となった父(景清)を訪ねて娘の人丸がやってくるという、悲しくもドラマチックな出会いと別れの物語です。
ここでは今から百数十年前、眼病に苦しむ真玉の人が宮崎の生目神社に参拝したところ、たちまち治ったために分霊を真玉の地に迎えたと伝わります。
しかしよく考えてみれば、眼病の神を分霊するために、これほど大きな岩々を集める必要はありません。岩を集めるより、小さくとも祠や社殿を建てるのが普通です。
つまり、この地が元々古くからの巨石磐座信仰の聖地であったからこそ、それに乗っかる形で新たな神(藤原景清)を勧請したと考えるべきでしょう。
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さらに不思議なことは、各地の生目神社にも、しばしば磐座らしき巨岩が目立つことです。
生目神社という名前ではありませんが、同じ藤原景清を祀る
景清神社が、岡山県西粟倉村影石の山中にもありました。






なお、宮崎県宮崎市大字生目にある生目(いきめ)神社に関して、ウィキペディアには、こう記されています。
「生目」の神社名については一説に、源平合戦(治承・寿永の乱)の後に源頼朝に捕らわれた藤原景清が、源家の栄達を目にすることを厭うとともに源家への復讐を断念するために自身の両眼を抉ったところ、その志を賞した頼朝から日向勾当という勾当職と日向国の地300町(およそ3,600坪)を与えられたといい、当地へ下向した景清の没後にその(抉った)両眼を祀ったことによると伝えるが[1]、別に、古くからの眼病治癒の霊地であったために「生目(活目)八幡宮」と称したとも、景行天皇の熊襲征伐の途次、先帝である活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこいさちのみこと。垂仁天皇)の崩御日にその霊を祀る祭祀(先帝祭)を当地において営んだため、住民がこれを嘉して引き続き聖地として崇め、「活目八幡宮」と称えたともいう。
たしかに垂仁天皇の名称については、
活目入彦五十狭茅天皇(日本書紀)
活目天皇(日本書紀)
活目尊(日本書紀無)
伊久米伊理毘古伊佐知命(古事記)
伊久米天皇(常陸国風土記)のように、いずれも「いくめ」系名称がついています。
ただし、実在が確実視される古代天皇とローカルな巨石文化の関係については、多少の違和感があります。
「いくめ」がどのような起源であるにしろ、さらに古い時代からあった巨石信仰の聖地に、あとから藤原景清や垂仁天皇などが被さったと考える方が自然かもしれません。
一方、平成初期に撮ったこの写真では、社頭の由緒書きとは異なる伝説が記されていました。

戦国時代に両子寺から宇佐神宮へと向かう途中に亡くなった、お姫様一行の事が由緒として記されるとともに、最後には
「ご神体台下の横穴には絶対に入らないように」
と読めるのです。
社頭の由緒書きには書かれていない、この不可解な禁忌の意味は、謎としか言いようがありません。
知られざる意味が隠されているようにも思えます。
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「神道霊学の四大人」とも称される
荒深道斉は、古神道の視点から巨石文明に興味を持って各地を探査した人物ですが、『天孫古跡探査要訣』にこう記しています。
「亀蛙牛馬鳥類等の形を成せる大石を附属せしむるのは、大國主神世の禽獣が天孫の天降を歓迎して畏服する状態を示すものにて、九州神籬の特徴なりとす。」

その解釈の当否はともかく、動物の形をした巨石がしばしばみられることが前提になっています。
ひょっとすると宇佐神宮の亀も、その系譜上にあるのかもしれません。

日本各地には、人工的であれ天然であれ、亀や蛇などに似ている岩は結構あります。




・・・いやいや管理人さん、天祖の降臨から179万2470余年なんていう、
♬~皇紀は2600年~の歌詞もびっくりな教義を唱える古神道の一派に、歴史学的な知見を求めても意味ないでしょう、なんて感想も聞こえてきそうですね。
たしかにこの本の中で、「日本のピラミッド」提唱者で日ユ同祖論者の酒井勝軍を痛烈に批判するくだりは、「それってコップの中の嵐じゃん」、なんて冷めた目で見る方も多いかと思います。
ただ、理念や教義はともかく、荒深道斉が昭和初期にさまざまな巨石文化を実地探査したことは確かです。現在では失われた巨石文化や磐座を記録している可能性を考慮するなら、現在でも参考にすべき貴重な資料が含まれていると思います。
というわけで、生目神社の特異な磐座は、古代の祭祀様式に従って、水鳥に似せたものなのかもしれません。
どれくらい古いのか不明ですが、ひょっとすると白鳥のトーテム、あるいはたたら文化等に関連する可能性もありそうな気がします。
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