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三遊亭円楽さんと藤原鎌足の不思議な縁

日曜夕方の『笑点』では、三遊亭円楽さんの後任である春風亭一之輔さんがその実力を発揮していますね。
ところで皆様は、亡くなった三遊亭円楽さんの本名をご存じでしょうか。
NHK「日本人のおなまえ」に円楽さんがVTR出演された時、自身の“激レア名字”を明かす場面がありましたので、記憶に残っている方もおられると思います。
その激レア名字とは、
會・泰通で、読み方は、あい・やすみち

円楽さんが明かされたところでは、ご長男は會一太郎さんで、奥様の旧名は佐々木愛。「お嫁さんには来られないよ」と伝えたことがあったそうで、「なぜですか」と聞かれ、「アイアイになっちゃうから」と答えたそうです。でも結局、佐々木愛様はめでたく「會愛」になられたとか💘

さて、『』という珍しい名字の由来は何か?

『名字由来net』様のホームページで検索すると、次のように出てきました。

【名字】會
【読み】かい,あい

【全国順位】 48,905位
【全国人数】 およそ40人

関連姓は藍氏、阿井氏。現大阪府北部と兵庫県の一部である摂津国有馬郡藍庄が起源(ルーツ)である、中臣藍連の子孫。中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)公季流浅井氏族。
近年、茨城県、千葉県、東京都などにみられる。


驚きました。鎌足と中臣藍(あい)連が出てきたのです。
中臣藍連は各地に足跡を残しているのですが、鎌足との関係でいえば、摂津三島(大阪府茨木市・高槻市)の「安威(あい)郷」が最も重要です。
藍野などの「藍」地名以外にも、安威川・阿為神社と、「あい」のつく地名や神社がこの地に集中しているのです。


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(これは安威城跡)


『名字由来net』様の「會は中臣藍連の子孫」という前提が正しければ、円楽さんのご先祖様は、ひょっとすると、摂津三島で鎌足と直接的な関係があったのではないかと想像する次第です(^^)/

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普通の日本人なら誰でも知っている、藤原鎌足。

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ところが鎌足の前半生については、ほとんど何もわかっていないという、謎の人物なのです。
最も強い疑いを持っておられる関裕二さんは、鎌足は百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子、余豊璋ではないかという仮説を提示されています
さらに、中臣氏は茨城県の鹿島神宮の出だという説は
「これは何かをごまかすためのリークであり、ガセネタと考えた方がよさそうだ。」とも書いておられます。

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もちろん賛否両論ですが、そんな説が成り立つくらい、鎌足は謎めいた人物なのです。

  ★

さて、私にとって鎌足最大の謎は、
なぜ摂津三島に埋葬されたのか、それはいったいどこなのか、そしてなぜそこを選んだのか、という疑問です。

これは、藤原鎌足を祀る、奈良の談山神社です。鎌足の長男の定慧と次男の不比等が建立したとされます。


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談山神社公式ホームページには、こう書かれています。

天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いと知った大皇は自ら病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。藤原氏は、ここから始まります。鎌足公の没後、御墓は摂津国 阿威あい山(現在の大阪府高槻市)に造られましたが、白鳳7年(678)唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称しました。さらに、大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置しました。これが談山神社の始まりです。

「鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬」というのが何とも奇妙・・・。
では、旧安威村側ではどう伝えられているかというと、茨木市安威の大念寺の伝説がそれをよく表しています。


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この境内には「黄金竹」と呼ばれる、昔から有名な竹が自生しているのです。

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(大念寺様ホームページより)


この竹は全体に黄色みを帯びており、成長するにつれ枝先が枯れていくという変わった特徴を持っているそうです。
そしてこれには、鎌足と定慧にまつわる伝説が残されていました。

鎌足は亡くなった後、安威の地に葬られたのですが、鎌足の長男である定慧は多武峰(現在の談山神社)に改葬しようとします。
しかし鎌足を慕う安威の人々はそれに反対したため、定慧はやむなく、父の首だけを多武峰に持って行って葬ったというのです。
そのため、鎌足お手植えであった黄金竹は成長すると、先端部分だけが枯れてしまうようになったとされています。


首だけ持って行った・・・というわけですね。
はたしてこのミステリーは、事実なのか?


さらにこれは、鎌足の墓とされてきた、大織冠神社


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この石碑をよくご覧ください。


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裔孫従一位勲一等藤原朝臣道孝と彫られています。
「裔孫」とは子孫の事です。鎌足を先祖とする藤原家の人々も、この地を墓として認識していたことがわかります。

いずれにしろ、長い間、ここが安威の人々や藤原家の末裔にとって、鎌足の墓とされ、祀られてきました。

これは、「右 鎌足公古廟」と刻まれた、旧安威村にあった道しるべです。


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お参りに来る人も多かったのでしょうね。

  ★

ところが1934年(昭和9年)、大阪府高槻市で京都大学地震観測所の建設中に突然瓦が出土し、巨石にぶつかりました。(ただし敷地の一部は茨木市安威)
その内部には漆で布を何層にも固めて作られ、外側を黒漆とし内部を赤漆で塗られた、きわめて高貴な人物用の夾紵棺(きょうちょかん)が発見されたのです。


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そして棺の中には、60歳前後の男性で、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていました。

その後は紆余曲折があって、いつしかこの騒動も忘れられていた1982年、地震観測所の一室から当時のエックス線フィルムが発見されたのです。
その解析により、ミイラは藤原鎌足のものである可能性が高まりました。

さらに2013年(平成25年)12月、関西学院大学の調査により、阿武山古墳で発見された棺に入っていた冠帽が、当時の最高級の技術で作られ、さらに金糸を織り込んだものである事が判明。


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日本書紀によれば、鎌足は死の直前に天智天皇から最上の冠位「大織冠」と大臣の位を贈られたとされており、この冠帽がそれではないかと考えられているのです。

その阿武山。


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白い塔が目立つ、京大地震研究所の裏側に墓がありました。今でこそ整備されて標識がありますが、かつては何の目印もない山林でした。なんでこんなところにと、誰しもが驚く場所なのです。

頭部も残っていた、そのミイラが本当の鎌足ならば、頭部だけ持ち去ったという伝承はどうなるのか。いったい誰の遺体を掘り起こしたのか、話はかなりややこしくなります。そっとしておくべきかもしれません。

ひょっとすると、本当の墓は徹底的に隠して、ダミーの墓を広めた可能性があります。
しかし、もし阿武山古墳が本当の鎌足の墓なら、おそらく我が子を始め、多くの人を欺かなければならない重大な理由があったはず。鎌足の遺言以外に、そんな重大なフェイントを計画できる人はいないはず。現在でいえば「元総理」レベルの地位なのです。側近が秘密裏に、遺言通り実行したとしか考えられません。
もしこの大それた計画に関与した人間がいたとしたら、死の直前に「大織冠」を授けた天智天皇だけでしょう。

しかし、もしそうだとしても、いったい何の目的でそんなミステリアスなことをしたのか?

 ★

不思議なことに、実は本人の墓ではなかった、という重大な実例が、もう一つ「安威郷」に存在しました。
継体天皇の藍野陵古墳です。


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『日本書紀』には、
冬十二月五日、藍野陵に葬った
と明確に記されています。

ところが近年、この古墳は考古学的には継体天皇より古い時代のため、現在では高槻市にある「今城塚古墳」が真の継体天皇陵であるとするのが定説になっています。


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今城塚古墳なら、もはや「あい」地域ではないにもかかわらず・・・。
鎌足の墓と同じようなフェイントが、ここにもあるのです。

  ★

ここで、上品かつ優美かつ頭脳明晰な私は思います。
「この巨大古墳が天皇陵でないなら、いったい誰の墓やねん、おかしいやろ。歴史学者は何しとんや、責任者出てこい。今でいうたら、イーロン・マスクやビル・ゲイツなみの大金持ちでないと、こんなもん造れるはずないがな。誰の墓かわからんなんて、そんなあほなことあるかいな。この現物みてみいや‼」
(あまりに上品な京都弁なので、意味不明だったらお許しください)


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ナントカ王朝の拠点で、巨大古墳がゴロゴロあって、どれが誰の墓かわからない、なんていう地域ではありません。
三島王朝なんて、ほぼ聞いたことないのです。たった二つしかないのに、片方の主がはっきりしないのは、きわめて不自然です。
そしてこの巨大古墳もまた、阿武山古墳と同じで、ちょっと見ただけではわからない場所にひっそりと存在します。

そもそも藍野陵古墳と今城塚古墳の距離は、わずか1.5㎞、自転車で五分程度。
そしてどちらの古墳の埴輪も、中間点ともいうべき『新池埴輪製作遺跡』で造られていました。


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二つの巨大古墳が深い関係にあることは間違いありません。
おそらく、継体天皇を北陸方面から迎え入れた、三島在地の大豪族関連の古墳と考えるほかないと思います。

さらに、藍野陵古墳には、もうひとつ重大な事実が隠れていました。
この地は、もう一つの「中臣」である、中臣大田連の本拠地だったのです。中臣大田連が祀る大田神社は、藍野陵古墳に接しています。古墳を守っているとしか考えられません。そして安威と大田は、お隣どうし。隣り合う地域で、ふたつの「中臣」が存在したのです。

先に藍野陵古墳が造られ、中臣太田連は後世住み着いたという説もあるようですが、中臣氏と藍野陵古墳の主は、古くから深い関係だったとしか考えられません。その一族の中から、鎌足が生まれたからこそ、ここに隠棲したり墓を造ったりしたのでしょうね。

それにしても、鎌足の阿武山古墳からは、あるじ不明の藍野陵古墳がはっきり見えるはず。
・・・・ここでふと気づいたことがあり、まさかと思いながら、グーグル地図で線を引きました。
すると、みごと的中。呆然とします。

何が的中したのかは後回しにして、とにかく現地で写真を撮ろうと先日阿武山に登ってきました。迷ったら、何度でも現場に行く。なんだか刑事モノのドラマのようですが。

  ★

阿武山古墳の南側は京大地震観測所が視界を遮るため、下界が見えません。そこで地震観測所の前から眺めてみました。

これが京大地震観測所。


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その前から撮影をしました。


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藍野陵古墳がはっきり見えます。背後の山は生駒山です。

アップすると古墳を取り巻く濠の水が分かります。


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前方後円墳の中心線は、ほぼこの阿武山古墳に向いているように思えます。
この巨大古墳は、もともと阿武山を意識して作られているのかもしれません。

そして、そのはるか彼方に、ある重大なものが予想通り的中していたのです。ただしこの日は、靄のためそれがはっきりとは見えませんでした。生駒山がうっすらと見える程度です。

では、一体何があるのか。
下の地図をご覧ください。





阿武山古墳と藍野陵古墳を結ぶ線の彼方、生駒山には、枚岡神社奥宮(枚岡神社創祀の地)があったのです。
ウイキペディアに、枚岡神社はこう記されています。

大阪府東部、生駒山地西麓において西面して鎮座する。後背山上の神津嶽における山岳信仰に始まるとされ、中臣氏の祖の天児屋根命を主祭神とする中臣氏の氏神として知られる。
平安時代に神階は正一位勲三等の極位に達している。中世以降は河内国の一宮として崇敬され、明治維新後は近代社格制度では最高位の官幣大社に位置づけられた全国的にも有力な古社である。


藤原氏が氏神として春日大社を創建した際には、枚岡神社の祭神2柱・天児屋根命・比売神の分霊が勧請されているため、元春日ともよばれます。

一方、安威郷の阿為神社も中臣藍氏がその祖神を祀ったもので、当然主祭神は天児屋根命。

 ★

マンションや住宅がびっしり建つ前には、視界がよければ枚岡神社の鳥居が豆粒のように見えたはず。
おそらくは中臣と深くかかわる大豪族の眠る古墳を通して、枚岡神社という自らの氏神を遠望し、祀ったのでしょう。

そういえば、「日本考古学講座」の著者のひとりで、藤沢一夫帝塚山大学講師は、
高槻市は中臣氏の根拠地で、阿武山は神座とあがめられた
と考えられました。
阿武山は、神体山ということなのでしょうか。

私の推測ですが、天智天皇と鎌足には、自分たちが亡き後、朝鮮半島政策を始め、何をしでかすかわからない大海人皇子(天武天皇)に対する警戒心があったはず。事実、天武天皇時代に藤原氏は鳴かず飛ばずでした。賢明な鎌足は十分予感していたでしょう。
道教系の呪術に堪能な祭祀者である天武天皇に対する、神道系の予防線を鎌足と天智天皇はひそかに設置したのかもしれません。

実は、鎌足の阿武山古墳と今城塚古墳の延長線上にも、重大な祭祀地がありました。阿武山古墳は、どうも計算された位置のようです。
はたして円楽さんのご先祖は、これらの内実を知っておられたのでしょうか(@_@)


勝手な理屈ばかりですが、それでもなお興味を持つ方がおられるようでしたら、続編は近々に。

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sazanamijiro

Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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