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司馬遼太郎生誕100年・対馬の原始神道

天まで届けと言わんばかりの、巨大な書庫をご覧ください。


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写真の下にも書かれているように、これは東大阪市の司馬遼太郎記念館に設置された、司馬遼太郎さん個人の蔵書です。(実はこれ、お土産に買ったファイルに印刷された写真をお借りしました。館内は撮影禁止。)

それにしても、ものすごい量ですね。司馬遼太郎さんは、古今東西のあらゆる分野の書物を読破したとされます。
彼が本を書く時、徹底的に関連書籍を買って読むので、例えばそれが日露戦争なら、古本屋街に日露戦争にかかわる本はすべて消えてしまったとか。
つまり、著書の中の何気ない一行にも、徹底的に調査研究したうえでの見解がさらりと書かれているわけです。

では、司馬遼太郎記念館の外観。


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残念ながら、記念館の内部は撮影禁止ですが、短い映画の上映や、コーヒーコーナーなどもあり、ゆっくり見学できます。

その司馬遼太郎さんが生まれたのは1923年(大正12年)。今年でちょうど100年になります。
司馬遼太郎記念財団が実施した、生誕100年記念のアンケートの結果、好きな司馬作品は、
1位は「坂の上の雲」、
2位は「竜馬がゆく」、
3位は「燃えよ剣」

がそれぞれランクインしたと、一昨日あたりのニュースで出ていました。

これまで出版された全司馬作品の紙・電子を合わせた累計発行部数は、判明しているだけでも2億部を超えたらしいですから、ものすごいですね。


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本日は、この偉大なる歴史家の記事です。


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(ウィキペディアより)

  ☆

巨大な書架があるのは司馬遼太郎記念館で、その隣が自宅でした。


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外から見るだけですが、下がガラス越しの書斎です。


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書斎から見える外は、小さくとも四季折々に変化する林です。


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  ☆

さて、直木賞を受賞した『梟の城』をはじめ、司馬遼太郎さんは実に多くの歴史小説を著していますが、1971年(昭和46年)から週刊朝日で連載された紀行随筆『街道をゆく』もよく知られています。


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ところで司馬遼太郎さんは、当然ながら全国各地を回ったわけですが、計画的にきちんと取材旅行に行ったというわけでもなさそうです。
上の「甲賀と伊賀のみち」の本では、こんな書き出しでした。

この旅で、須田画伯と久しぶりに会った。・・・
「伊賀へでも出かけましょうか。」
といって、二人とも雨の中を駈けこむようにして車に乗ったのだが、伊賀のどこへゆくというあてはなかった。
とにかく伊賀上野にむかって走ってもらった。どこへ行くかは大和と伊賀の国境あたりにさしかかるころに地図を取り出して決めればよいということにした。


伊賀に入る高速道路が降りになって伊賀上野盆地に入るあたりに、大内という地名がある。そのあたりの食堂で休息した。
食堂のテーブルの上に地図をひろげて眺めてみたが、行くべき方角がきまらない。
「どこへゆきますか」
と、編集部のHさんがにやにやしている。とりあえず出発点として伊賀上野城へ行ってみることにした。高いところで考えれば思いつくかもしれない。


えーっ、それって、
♬~盗んだバイクで走り出す 行先も解らないまま
の尾崎豊とおんなじですやん(^^♪。
意外にも、しっかりと文献研究してから計画的に取材旅行いくのとは、ぜんぜん違ったようです。なんだか親近感が湧きました。

ところで、ここに出てくる須田画伯とは、須田剋太さんのことです。「街道をゆく」の連載開始から1990年までの約20年間、司馬氏に同行してスケッチを重ね、挿絵を制作しました。

司馬遼太郎さんは、
もし無人島に漂着せねばならないとしたら須田さんがご迷惑でもご一緒願いたいと思うほどに離れがたい仲間になってしまった。
とまで書き、編集部の橋本申一氏を入れた三人組の仲間が、じつに楽しかったと記しています。

ところでこのブログでは、巨石の大きさが実感としてわかるよう、妻が写っています。
妻は若いころ画家を目指した時期があり、須田画伯のアドバイスをもらったこともあるそうです。
そんな縁もあり、ここからは日本の原始神道にかかわる『街道をゆく13 壱岐・対馬の道』に沿って、写真を少し選んで載せることにしました。

ちなみに日ハムのBIGBOSS、新庄 剛志監督は長崎県対馬市生まれです(^_-)-☆。

 ☆

『街道をゆく13 壱岐・対馬の道』には、日本の神道についてこう記されています。


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壱岐・対馬は古神道の源流ともいうべき古寂びた華やぎをもっている。しかし明治国家が発明した国家神道というのは同じ「神道」の名を冠するとはいえ、民俗的な古神道とは縁がなく、神聖国家論という普遍性のない理念を基礎にしている。

なんという大胆な、そして驚くべき見解でしょうか。
私たちが普段「これこそ日本の伝統信仰だ」と思い込んでいる現在の神社信仰様式、つまり神様の名前やご利益や参拝方法、、さらには神社関係団体のありようも含め、総体として、「民俗的な古神道とは縁がな」く、そしてそれらは「明治国家が発明した信仰の様式」だというのです。

別の本ですが、『この国のかたち 五』の中で司馬遼太郎さんは、西行の有名な歌について触れています。

「何事のおはしますをば知らねども辱(かた)じけなさに涙こぼるる」
というかれの歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった。



天神さんだから受験のお守り、お稲荷さんだから商売繁盛・・・なんていうのは「余計なこと」に類する?

さらには、

古神道には、神から現世の利をねだるという現世利益の卑しさはなかった。
とまで・・・

なかなか強烈です。初詣で宝くじ当選を祈る私なんぞは、かなり卑しい俗物なんですね(>_<)
それはともかく、この『街道をゆく13 壱岐・対馬の道』では、気の合う三人組のほかに、対馬学の権威・永留久恵氏と朝鮮文化研究者の金達寿氏という、ある意味最強の同行者がいました。


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天皇家につながる『天つ神』が、なぜか対馬には土着の神としてごろごろ祀られている・・・それはなぜか、という問いを発しながら、一行は人っ子ひとりいない、最果ての式内社・海神神社(オレンジ色ポイント)を目指します。





このお社のことは、日本最古の神社ともいわれる淡路島の伊弉諾(イザナギ)神宮境内に、石板として記されています。

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伊勢神宮(内宮)と伊弉諾神宮(淡路島)が北緯34度 27分 23秒の東西線上に位置し、その遙か西方には、対馬の海神神社があることを示していたのです。

伊弉諾神宮は、皇室とも関係が深く、いわば神社界の保守本流のような権威あるお社です。
そのお社が、東西ラインでつながると明示しているのですから、よほど重要な意味があるはずでしょう。

で、人っ子一人見かけない、海神神社周辺の寂しい景色と、神社正面。


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ここは、

海神(わたつみ)神社は、伊豆山の山頂にある。山頂への道は堂々たる石段で、登るのが大変だが、ただこのような土地にこれほど贅沢な石段が造営されていることにおどろかされた。

と記される、長い石段です。


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途中にある岩。


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司馬遼太郎さんはなにも言っていませんが、これらは磐座とみるべきだと私は勝手に思っています。

そして、立派な社殿。


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海神神社のライバル?でもある和多都美神社(茶色ポイント)も話題になっています。


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そして、さらに一行が向かった重要なお社は、佐護川が海にそそぐ場所に鎮座する天神多久頭魂神社(黄色ポイント)。


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神社は天道山を背負い、そのふもとにある。
古代信仰どおり、山そのものが神である。山は原生林におおわれ、何者も斧を入れることができない。

モンゴル高原での信仰上の具象物であるオボのようなものが、二基ある。
「磐境(いわさか)です」
と木坂の社家の永留さんはいう。



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この岩積みは後世的な新しいものという説もありますが、代々対馬の神社と関係が深い永留氏がそう言うのですから、建て替えたにしろ元々の起源は古いものだと思います。

なお、この本には出てきませんが、私としては佐護川対岸の、この不思議な岩(紫色ポイント)にも行ってほしかったです。


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うわさの盃状穴?
なんとも奇妙なこの岩は、その位置からして、対馬の原始神道の謎の一つだと私は感じています。
司馬遼太郎さんと永留久恵氏は、これを見てどう解釈するのか、あるいは金達寿氏は朝鮮半島や大陸文化との関連を感じたのかどうか、ぜひ見解が聞きたかったのですが・・・。

ついでにもう一つ、対馬の玄関口である厳原(ピンク色ポイント)に近い、宝満宮奥の院。(青色ポイント)


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奥に立石がある、神殿の様な祭祀様式は、マヤの神殿と言っても違和感ないかもしれません。
日本とは思えない文化です。

これも碩学三人の見解が聞きたかったのですが・・・


いずれにしろ、徹底的に古神道の書籍を読んだ司馬遼太郎さんの見解は、私たちに伝統信仰とは何かということを、あらためて考えさせてくれます。


四苦八苦のネタ探し、三つともクリックしていただくと元気が出ますので、よろしくお願いいたします(^_^)/~
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コメント

西行法師の

いつもお世話になります。
西行法師の歌は心にしみますね。
私も小さい祠や石仏がぽつねんと
佇むところでは、あの歌を思い出して
拝礼しております。
花の下にて春死なむと詠った歌もそう
ですが、本邦の自然観がよく判ります。

閑話休題。司馬作品では、項羽と劉邦
が私のお気に入りです。宮城谷さんの
作品と違って、脚色が少ないのが良くも
悪くも司馬さんですね。

No title

天神多頭神社の磐境のテッペンにある石ですが、海中で動植物によって浸食された石で「水蝕石」(みずくいいし)というんだそうですね。最近読んだ本に、島原半島の猿田彦大神碑を例に説明してありました。
「水窪石」ともいう呪い石で、盃状穴にも関連があるそうですが、どうでしょうか。

大分県ではこうした石が祠にあって、その扉に「水神」「龍蛇神」の神記号の三角紋の穴があるとのことですが、生命の誕生や再生を考えれば、関連がなくもないし、まじないの穴というところは同じ思想にも思えますが、今一つ、ピンとこないんです。

Re: 西行法師の

鯨様

「何事のおはしますをば・・・」の西行も、伊勢では若い神官たちに乞われて歌会をしているくらいで、「何事」が分かってないはずがないと司馬遼太郎は書いています。西行もまた、深い思索のできる一流の文化人だったのですね。
恥ずかしながら項羽と劉邦、読んでないので、せっせと読みます(>_<)

Re: No title

ちから姫様

貴重な情報ありがとうございました。
静岡県水窪で発見された水窪石は、縄文時代のいわゆる古代文字が刻まれているとか聞きます。天神多頭神社の磐境に乗っているのは、風化と浸食で特異な形状になった岩で、何かを刻んでいるようには見えなかったのですが、自信はありません。
それにしても、なんだか謎は深そうですね。

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プロフィール

sazanamijiro

Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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