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天の岩戸神話の舞台を推理する!

五百年前の伊勢神宮の祭祀を、かなり忠実にスライドさせたのが山口大神宮でした。これは逆に、山口大神宮から古い伊勢神宮の祭祀を類推することが可能だということになります。

そこで今回は、日本神話の中でもよく知られる『天岩戸』を取り上げたいと思います。


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  ☆

山口大神宮の岩戸社

山口大神宮には、「岩戸社」が山の上に位置しています。
伊勢神宮の外宮には、山上に高倉山古墳(天の岩戸古墳)がありますから、これを模したのでしょう。

そこで、山口大神宮の「岩戸社」について調べてみました。

すると、「中国地方の登山紀行 法師崎(ほうしざき)のやまある記」ブログ様に、岩戸の動画があることが判明。
それを見ると、岩戸の大きさや幅はそれほど大きくはないものの、石積の奥の洞窟の中に、三本の石柱が立って並んでいました。入り口部分の石積みは、本家の高倉山古墳を連想するような形状です。

このことから考えると、五百年前の伊勢外宮では、高倉山古墳が『天岩戸』である事を、伊勢神宮自身が公認していた可能性が高いと思います。


外宮の高倉山古墳

これが高倉山古墳です。

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ウィキペディアの「高倉山古墳」では、この古墳について、次のような来歴が記されています。

鎌倉時代頃、『倭姫命世記』・『天地麗気記』・『高庫蔵等秘抄』に高倉山に石窟が存在する旨の記述。

室町時代頃、『神祇秘抄』に石室規模の記載。『康富記』・『鏑矢伊勢宮方記』によれば当時には信仰対象となり石室内に小祠。

江戸時代、天岩戸として広く信仰対象。墳丘北側に神楽殿、付近に茶店の設置。

1888年(明治21年)、坪井正五郎が実見。古墳として初めて認知。

1895年(明治28年)、『神郡名勝誌』に石室計測値の記載。

明治期後半、諸施設の撤去。高倉山入山の禁止化。



つまり、室町時代には石室に「小祠」があり、それ以前から何らかの信仰があったことがわかります。
山口大神宮に「天の岩戸」が存在する事から考えると、1514年にはすでに伊勢神宮において、高倉山古墳を天岩戸として祀っていたのは確実です。

さらにそれ以前、鎌倉時の地図には「手水所」「茶所」「高天原神楽殿」等が記されており、ここが高天原の「天の岩戸」として信仰の対象となっていたことも間違いないようですね。

また1797(寛政9)年の「伊勢参宮名所図会」にも、高倉山の神楽殿や茶屋などが描かれ、岩戸の前には庇(ひさし)のような建築物が見えるそうです。

これらから考えると、日本神話における「天の岩戸」とは、高倉山古墳がモデルだった可能性が強まります。


日本全国の「天の岩戸」

誓約(うけい)によって身の潔白を証明したスサノオは、調子に乗って田の畔を壊して溝を埋めたり、アマテラスの御殿に乱暴を働いたりします。そしてとうとう、機屋の屋根に穴を開けて皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまいます。
そのため天照大御神は天岩戸に引きこもりました。すると高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生します。

そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、常世の長鳴鳥を集めて鳴かせたり、天宇受賣命が踊ったりして天照大御神を岩戸からおびき出し、天手力男神がその手を取って岩戸の外へ引っぱりだしたというのが一般的なあらすじです。

ここがその岩戸だ、という場所は各地に存在します。
ウィキペディアには、『天の岩戸』の候補地がこんなにたくさん記されていました。

滋賀県米原市弥高 - 平野神社。

京都府福知山市大江町 - 皇大神宮(元伊勢内宮)、岩戸神社。

滋賀県高島市 白鬚神社 - 岩戸社。

奈良県橿原市 「天岩戸神社」 - 天香久山の南麓。

三重県伊勢市 伊勢神宮外宮 - 「高倉山古墳」。昭和時代に入山が禁止された。

三重県伊勢市二見町二見興玉神社 - 「天の岩屋」

三重県志摩市磯部町恵利原 - 恵利原の水穴

岐阜県各務原市「手力雄神社」「史跡めぐり」

兵庫県洲本市安乎町 - 岩戸川の河口北。

兵庫県洲本市先山 - 岩戸神社。

岡山県真庭市蒜山 - 茅部神社の山の上方。

徳島県美馬郡つるぎ町 - 天の岩戸神社の神域にある。

山口県山口市秋穂二島岩屋 - 塩作りの海人の在住地、防府市の玉祖命の神社に近い。

宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸 - 天岩戸神社の神域にある。同神社西本宮の背後、岩戸川を挟んだ対岸の岸壁にあり、社務所に申し込めば案内付きで遥拝所へ通してくれる。周辺には天安河原など、日本神話、特に岩戸隠れ神話にまつわる地名が多く存在する。

沖縄県島尻郡伊平屋村「クマヤ洞窟」 - 全国に数多ある「天の岩戸伝説」の中で最南端地。

岐阜県高山市 - 位山。


いやー、すごい数ですね。
風宮から登る高倉山内の「岩戸」も記されていますが、すでに述べたように、これは全国でも屈指の横穴式石室を持つ高倉山古墳で、近世ではその石室を天の岩戸に見立てた神楽が行われていました。


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(これは高千穂神楽)

では、「天の岩戸伝承」の画像をいくつか載せます。

まずは、京都市山科区日ノ岡の日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)。


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社殿が神明造りであること、内宮(ないく)・外宮(げく)が奉斎されていることなど、伊勢神宮との共通点も多く、日向大神宮は「京の伊勢」とも呼ばれています。

そしてこれが天の岩戸。

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次は、滋賀県高島市鵜川に鎮座する白鬚神社(しらひげじんじゃ)。


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やはり内宮と外宮がそろっています。

そして高倉山と同じく、古墳の開口部を岩戸として祀っています。


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徳島県名西郡神山町鬼籠野元山にある、天岩戸立岩神社(あまのいわとたていわじんじゃ)には、神秘感漂う巨石がありました。


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宮崎県の高千穂峡に近い天岩戸神社では、対岸にある岩戸の撮影は厳禁。
下は天岩戸神社西本宮から、岩戸川に沿って徒歩約10分に位置する天安河原です。


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神々はここで作戦を練ったという事でしょうね。



さらに、奈良県は天の香久山の麓にある岩戸神社です。


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同じ奈良県でも天石立神社の立石は、岩戸神話の扉石が虚空を飛来し、ここに落ちたものと伝えられています。


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これが扉石なら、そうとう巨大な岩屋あるいは洞窟だったことになりますね。



兵庫県洲本市上内膳の岩戸神社は、山上の急な斜面にありました。


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・・・・それにしても、こんなにたくさんの候補地があるという事は、ニセモノが多いという事でしょうか?
まあ地元びいきの感情が、ウチの地域こそが由緒ある神話の舞台なのだという、いわば地域ナショナリズムを呼び起こした可能性はあると思います。



ではそもそも『天岩戸神話』とは何者か?

意外にもこの神話は、日本独自のオリジナルではありません。インドネシア・タイ・トルコ・モンゴル・中国南部・サハリンなどのアジア地域には、広く射日神話・招日神話が存在し、特に中国南部の少数民族に天岩戸と似た神話が多いとされます。

大林太良の『神話の系譜』(講談社学術文庫)には、「高句麗の解慕漱(天王郎)神話と日本の宇気井・天岩屋神話」という一節がわざわざ設けられ、詳しい比較研究があります。

また松前健『神々の系譜』(PHP研究所)では、東南アジアのオーストロアジア語族に相似の神話が多いことを記したうえで、
「むしろこの話は、冬季、天皇の御魂を、その体に鎮めまつる呪術祭儀である鎮魂祭と結びついていたのである」
と結論されています。

それ以外にまた、日蝕神話であるという説も広く知られています。

つまり、どれか一つがホンモノで、あとはニセモノというようなものではありません。
天岩戸神話の源泉が北方ユーラシア系であれオーストロアジア系であれ、日本列島に複数の経路から入った伝承記憶が、それぞれの地域に根付いてローカル色豊かに残存していた可能性もあります。

それが後世、日本書紀や古事記などの公式な王権神話に触発されて「その話はうちのお社の伝説と似ているから、ここが舞台だったに違いない」という意識が生まれたと考えて無理はありません。

ただし、日本書紀や古事記に描かれた神話は、王権内部において明確なイメージと意図があったはずです。
さきほど触れた、松前健『神々の系譜』による仮説は

「天の岩戸神話=鎮魂祭=冬至祭儀」

という構造です。

さらに井上光貞『日本の歴史1』(中公文庫)には、《冬至の祭り》という項において

「冬至の祭りにおいて、日の再生を乞い、したがって日の神の魂をよび迎え、そうすることによって、日とともに天皇の魂の勢力をふるいたたせることが、鎮魂祭の本義であった」

という折口信夫説をまず紹介しています。

そして日蝕説と冬至説を比較し、

「天の岩戸祭儀は実際の祭儀をその背景に持っていると考えられるが、祭儀というものは、本来、規則的にくりかえされるものである」

として、突発的に起こる日蝕ではなく、毎年必ず巡ってくる冬至と結びつける説を支持しました。

井上光貞先生は昭和25年から昭和53年まで東大の先生で、著書もよく売れたようです。
また前述の松前健先生は、国学院大・立命館大・天理大等におられて著書も多数ありますから、天の岩戸と冬至を結びつける説
を支持する研究家は多いと思います。


天の岩戸神話を現実の祭儀と結びつけると・・・・

天の岩戸祭儀は実際の祭儀をその背景に持っている・・・
この言葉に関して、私の妄想的推理を述べさせていただきます。

鎮魂祭や新嘗祭などが高度に宮廷儀式化される前、つまり国家神道も瀬織津姫の封印もなかった昔、高倉山古墳の前において、天岩戸神話が儀式として再現されていた可能性があると思います。

というのは、古墳の実測図をよく見ると、冬至の赤い夕日が石室の奥に差し込む角度に設計されているようなのです。


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冬至の赤い夕日は、「衰えて死にゆく太陽」であり、冬至明けの朝日で復活して、夏至に向かって日々輝きを増してもらう必要がります。


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太陽系の構造を知っている私たちは、冬至明けの太陽が昇り、それ以後春と夏に向かう事は当然だと思っています。
しかし古代人にとって、太陽は神であり、ある意味不安定な存在でした。
だから太陽復活の儀式をするわけです。

視点を変えると、冬至の夕日は、岩屋に隠れる天照大神を象徴すると考えられます。
ひょっとすると、夕日が射した石室の扉をいったん閉ざし、天宇受賣命や天手力男神の子孫を集めて、古墳の前で神話を髣髴とさせる祭儀が実際に行われていたのではないか。


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神体山を持つ多くの神社では、山頂に奥津磐座や元宮を持ちます。かつてそこで天空の神を迎える、古式ゆかしい儀式が行われていたことでしょう。
しかし社殿の建立に伴って簡略化され、次第に儀式は山麓の社殿の中のみで行われるように変化します。社殿の中なら、登山の苦労や雨や雪の心配もありませんから、確実に便利です。


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外宮においても、いつしか山に登っての祭儀をやめ、記憶も薄れたころには扉の岩も 引き摺り下ろされて、外宮水路の橋にされる運命が待っていたのでしょうか。

しかし天の岩戸という記憶は人々に残り続け、封印以前は茶店ができるほど名所として参詣者が多かったのだと思います。


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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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