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熊野三山・厳島・宗像・そして秦の徐福

熊野本宮大斎原の横を流れる水は、新宮市の中心部を通って太平洋に注ぎます。
その河口付近には、こんなこんもりとした小山がありました。


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今回は、この山に関する話題です。

  ☆

先日の記事で、神倉神社のご神体であるゴトビキ岩と


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神倉神社を拠点とする神倉聖の聖地・行場であった不思議な浮島(新宮藺沢浮島植物群落)と


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熊野権現が神倉山に下りた後に勧請された阿須賀神社と蓬莱山が


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夏至線上に並んでいることを記事にしました。

 ☆

そして前回は、三輪﨑の漁民に厚く信仰されている孔島(厳島神社)と、


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鈴島(蛭子神社)の岩穴と


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先ほどと同じ蓬莱山(阿須賀神社)が線上に並んでいることを記事にしました。

なお、鈴島にはこんな奇岩もあります。


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いずれにしろ、どちらの祭祀ラインも、蓬莱山(阿須賀神社)を起点あるいは終点としています。

実は、最初に載せた熊野川河口の小山は、この蓬莱山を背後の対岸から見た姿でした。

  ☆

日本神話に登場する日本最古の神社の一つ、福岡県の宗像大社は、辺津宮(本土)と中津宮(大島)と沖津宮(沖ノ島)の三宮を総称して、宗像大社と称します。
そしてこの三宮は、一直線に並びます。


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孔島の厳島神社は、安芸の宮島の厳島神社から勧請されたようですが、本家の厳島神社でもやはり、弥山頂上と厳島神社と「外宮」とされる地御前神社が直線上に並びます。


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海の信仰には、どうも直線上の三点が重要なようです。
となると、先ほどの直線には、重要な意味が秘められている可能性があると思います。

その著書を何度も引用させていただいている野本寛一さんは、海岸部の神体山を『海浜神奈備』とし、水平来臨の信仰思想だと述べられました。(三輪山・三上山・太郎坊・加茂神山などは垂直来臨)

さらに、静岡県の浜名湖西岸の依り神信仰について、神霊の移動経路が「ほぼ一直線にある」と書いておられます。
《石の民俗・雄山閣》

  ☆

さて、ここで気になるのは、阿須賀神社には、なんと「徐福の宮」が存在する事です。


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司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、
「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」
と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出しました。
しかし「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとされます。

さらにその内容を裏付ける資料として、朝鮮半島で書かれた『海東諸国記』には、徐福は孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に至り、崇神天皇の時に死んで神となったと伝えられるそうです。

これらに関して、日本各地に徐福に関する伝承が残されています。


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徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県出水市、いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名なのですが、とりわけ新宮市付近は重要です。

新宮市に近い三重県熊野市波田須から、2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されています。波田須駅1.5kmのところには徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としているのです。

そしてこの新宮市には、徐福公園があり、徐福の墓もあります。


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売店には、徐福グッズや書籍が置いてありました。新宮市では、徐福はかなり重要な存在なのですね。


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  ☆

阿須賀神社は、典型的な神体山である蓬莱山の南麓に鎮座しています。
蓬莱山は南北100メートル、東西50メートル、標高48メートルの椀を伏せたような山容で、熊野権現はまず神倉神社に降臨し、61年後に阿須賀神社北側に勧請されました。

さらに境内からは弥生時代の遺跡が発掘されており、この地は熊野の歴史と信仰の起源にかかわる極めて重要な地です。


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さらに、すぐ近くには「宮井戸(みやいど)遺跡」があります。


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ここは阿須賀神社の社地です。磐座らしい巨石が目立つ小丘で、ここからも弥生~古墳時代の土器が見つかっています。

  ☆

ところで、徐福は3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出しました。
しかし疑問に思うのは、不老不死の薬は早く見つけて、早く始皇帝に届けないと意味がありません。現地でトラブルがあった時のために、屈強な兵士たちと、取引や和解のための金銀財宝を積んでいるならともかく、童男童女と百工と五穀の種というのは、どう見ても開拓移民です。

中国で見つかった「徐福村」では、
「私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するであろう。そして必然的に徐姓は断絶の憂き目にあうであろう。我々が旅立った後には、もう徐姓を名乗ってはならない。」
という言い伝えがあったそうです。
これが事実なら、徐福はもともと不老不死の薬が見つかるなどと思っておらず、別の目的があったことが分かります。

三千人、あるいは一万人ともいわれる移民集団が、当時の最新鋭のテクノロジーとともに、日本の弥生時代初期に到来したというのが、徐福伝説の根幹かもしれません。
もちろん一度に全員が同じ場所に住みつくのはキャパ的に無理があります。暴風雨で船団が分離したり、あるいは上陸してからさらに理想の地を求めて移動した人々もいたでしょう。そしてその一部分、おそらく徐福を含む本隊が、新宮付近にとどまって弥生文化を発展させ、後の熊野信仰に繋がる精神文化にも影響を与えたのかもしれません。

そしてもし神武天皇、あるいはそのモデルとなる人物がここへ来たのなら、大和とは違うこの文化や勢力の力を借りたとか、何らかの関係があったのではと思う次第です。


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Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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