鈴島(三輪崎)と神武伝説の深い謎
- 2020/08/29
- 06:00
南紀の海岸沿いに、どうも気になってしょうがない地名が二か所あります。
串本町の潮岬にある「出雲」と新宮の「三輪崎」です。
特に後者周辺には「JR三輪崎駅」「新宮市立三輪崎小学校」などをはじめ、三輪崎という地名を冠した公共施設も多く、この地名が伝統的に用いられてきたことを示しています。
本家である奈良の「三輪」は、「三輪王朝」や卑弥呼の墓説のある「箸墓古墳」など、日本古代史のカギを握る重要な地名・地域です。
よく知られるように、三輪山は山自体が大神(おおみわ)神社のご神体であり、現在でも本殿がありません。
となると、この「三輪崎」にも特別なものがあるのではないか・・・?
というわけで、行ってみました。
☆
国道から三輪崎へ折れる場所には、こんな看板がありました。
そう、ここは神武天皇上陸伝承地だったのです。
で、その道の先にあったのが、三輪崎漁港です。
赤い鳥居とこんもりとした緑の島が見えます。孔島(くしま)です。
この鳥居の奥にあるのは、厳島神社。地元の漁師さんたちの信仰が厚いそうです。
現在は防波堤でつながっていますが、昔は船で渡る島でした。
また孔島は久嶋とも呼ばれ、ハマユウの群生のほか51科120余種の植物群落があります。
☆
もう一つ、岩山のような島がありました。
現在は漁港の一部に取り込まれていますが、やはりかつては狭い海峡を隔てた島だったのでしょう。名前は鈴島。
何か重要なものがないか、近づいてみます。
海のなかの岩石庭園というか、なかなか不思議な光景です。
横に回ると、巨大な穴がありました。
ちょうど穴から見えるのは、先ほどの孔島ではありませんか。
偶然にしては、どうもできすぎな光景ですね。
さらに背後へ回ると、岩山の中央部に続く道があります。岩山だと思っていたら、樹林帯もあるのですね。何があるのか奥へ進んでみました。
神社のようです。
よく見ると、こんな石標がありました。
実は事前に地元の観光協会に問い合わせていたのですが、「孔島には神社があるが、鈴島には特にない」という返事でした。
地元の方も意識しない隠れたお社なのでしょうか。
さらに背後の海際には、ひときわ目立つ立石。
不思議な模様です。
かつてはこの立石が、神の依りつく磐座だったような気がしてなりません。
神武天皇上陸伝説も、この立石があってこそなのかも・・・
というのは、こんな事実があるからです。
下は、神武出航神話のある宮崎県日向市美々津(みみつ)。
日本神話では、神武天皇が兄の五瀬命(いつせのみこと)らとともに国家統一を決意し、ここから兵をまとめて出港したとされます。
美々津の立磐神社は、神武天皇と航海神の住吉三神を祭神とするお社です。
ここには「神武天皇御腰懸磐」があり、神武天皇が出航の際にこの岩に腰掛け指揮したとされ、ウィキペディアでは社名の「立磐」もこれに由来すると書かれています。
しかし、これは「立磐」とは言えません。本来の立磐は、まちがいなく本殿背後のこの岩でしょう。
本殿背後の目立つ岩は、通常最も重要な磐座であり、ご神体です。
そこにタテイワの名にふさわしい、奇しき岩が存在するわけですから、こちらが社名の由来でしょう。
いずれにしろ、水際の立石(岩)周辺から出航した神武天皇が、同じく水際の立石周辺に上陸する・・・・果たしてこれは単なる偶然なのでしょうか?
神武天皇伝説がそのまま歴史的事実だとは考えていませんが、鈴島の立石がかつて重要な磐座であったなら、何かそこには神話に繋がる深い理由があるかもしれません。
下の説明板をご覧ください。
万葉集にも詠まれたこの地は、古来交通の要衝として、海のターミナルであったことが分かります。しかも鉄鋼業が存在し、本家の三輪山麓と同じように史跡がぎっしり詰まっていることがあきらかです。
☆
さて、鈴島の岩穴から孔島が見えましたが、ふと思ったことがあります。
逆に鈴島の側から岩穴を見ると、なにかその先にはいわくありげなものが存在しているのではないか?
そう思ったのですが、防波堤が邪魔をしてよく見えません。
まあ、ただの海岸線と新宮の山々が見えるだけだろうと、テキトーに考えていました。
しかし、念のために帰ってから地図で調べて見ると・・・
いちばん下(南)の孔島と岩穴の鈴島を結んだ反対側には、距離はあるものの、ある小山がありました。
その山が、これです。
ここは、熊野三山信仰の始原と秦の徐福伝説に深くかかわる、阿須賀神社とその神体山である蓬莱山でした。
誰も言わない大きな謎が、ここにあったのです。
つづく
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串本町の潮岬にある「出雲」と新宮の「三輪崎」です。
特に後者周辺には「JR三輪崎駅」「新宮市立三輪崎小学校」などをはじめ、三輪崎という地名を冠した公共施設も多く、この地名が伝統的に用いられてきたことを示しています。
本家である奈良の「三輪」は、「三輪王朝」や卑弥呼の墓説のある「箸墓古墳」など、日本古代史のカギを握る重要な地名・地域です。
よく知られるように、三輪山は山自体が大神(おおみわ)神社のご神体であり、現在でも本殿がありません。
となると、この「三輪崎」にも特別なものがあるのではないか・・・?
というわけで、行ってみました。
☆
国道から三輪崎へ折れる場所には、こんな看板がありました。
そう、ここは神武天皇上陸伝承地だったのです。
で、その道の先にあったのが、三輪崎漁港です。
赤い鳥居とこんもりとした緑の島が見えます。孔島(くしま)です。
この鳥居の奥にあるのは、厳島神社。地元の漁師さんたちの信仰が厚いそうです。
現在は防波堤でつながっていますが、昔は船で渡る島でした。
また孔島は久嶋とも呼ばれ、ハマユウの群生のほか51科120余種の植物群落があります。
☆
もう一つ、岩山のような島がありました。
現在は漁港の一部に取り込まれていますが、やはりかつては狭い海峡を隔てた島だったのでしょう。名前は鈴島。
何か重要なものがないか、近づいてみます。
海のなかの岩石庭園というか、なかなか不思議な光景です。
横に回ると、巨大な穴がありました。
ちょうど穴から見えるのは、先ほどの孔島ではありませんか。
偶然にしては、どうもできすぎな光景ですね。
さらに背後へ回ると、岩山の中央部に続く道があります。岩山だと思っていたら、樹林帯もあるのですね。何があるのか奥へ進んでみました。
神社のようです。
よく見ると、こんな石標がありました。
実は事前に地元の観光協会に問い合わせていたのですが、「孔島には神社があるが、鈴島には特にない」という返事でした。
地元の方も意識しない隠れたお社なのでしょうか。
さらに背後の海際には、ひときわ目立つ立石。
不思議な模様です。
かつてはこの立石が、神の依りつく磐座だったような気がしてなりません。
神武天皇上陸伝説も、この立石があってこそなのかも・・・
というのは、こんな事実があるからです。
下は、神武出航神話のある宮崎県日向市美々津(みみつ)。
日本神話では、神武天皇が兄の五瀬命(いつせのみこと)らとともに国家統一を決意し、ここから兵をまとめて出港したとされます。
美々津の立磐神社は、神武天皇と航海神の住吉三神を祭神とするお社です。
ここには「神武天皇御腰懸磐」があり、神武天皇が出航の際にこの岩に腰掛け指揮したとされ、ウィキペディアでは社名の「立磐」もこれに由来すると書かれています。
しかし、これは「立磐」とは言えません。本来の立磐は、まちがいなく本殿背後のこの岩でしょう。
本殿背後の目立つ岩は、通常最も重要な磐座であり、ご神体です。
そこにタテイワの名にふさわしい、奇しき岩が存在するわけですから、こちらが社名の由来でしょう。
いずれにしろ、水際の立石(岩)周辺から出航した神武天皇が、同じく水際の立石周辺に上陸する・・・・果たしてこれは単なる偶然なのでしょうか?
神武天皇伝説がそのまま歴史的事実だとは考えていませんが、鈴島の立石がかつて重要な磐座であったなら、何かそこには神話に繋がる深い理由があるかもしれません。
下の説明板をご覧ください。
万葉集にも詠まれたこの地は、古来交通の要衝として、海のターミナルであったことが分かります。しかも鉄鋼業が存在し、本家の三輪山麓と同じように史跡がぎっしり詰まっていることがあきらかです。
☆
さて、鈴島の岩穴から孔島が見えましたが、ふと思ったことがあります。
逆に鈴島の側から岩穴を見ると、なにかその先にはいわくありげなものが存在しているのではないか?
そう思ったのですが、防波堤が邪魔をしてよく見えません。
まあ、ただの海岸線と新宮の山々が見えるだけだろうと、テキトーに考えていました。
しかし、念のために帰ってから地図で調べて見ると・・・
いちばん下(南)の孔島と岩穴の鈴島を結んだ反対側には、距離はあるものの、ある小山がありました。
その山が、これです。
ここは、熊野三山信仰の始原と秦の徐福伝説に深くかかわる、阿須賀神社とその神体山である蓬莱山でした。
誰も言わない大きな謎が、ここにあったのです。
つづく
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