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シーギリヤのヒントで考える「ひさし」と「岩屋」の古代文化

岐阜県中津川市苗木の「穴観音」です。


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天井部の巨石には、不思議な線刻があります。明らかに、何らかの目的で意図的に彫られたものでしょうね。


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この線刻群の中でも、幅広い線が三角形にクロスする謎のマークと、ゆるやかなカーブで横一文字に彫られた狭い下部は別のものかもしれません。


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しかし少なくとも下部の線刻には、大きなヒントがありました。
シーギリヤの「コブラの岩」です。


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その一部、中間部分の高さには、やはり横に溝が彫られています。


この線刻の意味について、ナレーションはこう語っていました。

「岩肌から雨が回り込まないように工夫した段差。これは、人の手で削りました。」

つまり、岩壁の雨樋だったのです。

となると、「穴観音」の線刻も、雨樋だったと考える事ができます。
確かに、雨樋がないと雨水が下に回り込み、ポタポタ水が岩屋内部に落ちて、「雨風を避ける」事ができません。
雨天時は祭祀やお参りも難しくなります。泥まみれの聖地はいただけませんね。


  ☆


よく見ると、安達ケ原の岩屋も、横に線刻があるように見えます。


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ひょっとすると、ここに土器を埋めた縄文人や弥生人が、
「ここってさあ、雨が降ったら祭儀ができないじゃん」
「ほんまやなあ、ほなゲンさんとこの先祖が南の国でやってたっちゅう、掘り込み入れてみよか!」
なんて縄文語による会話があったのかもです。

磨製石器や打製石器を作る技術者なら、石を加工する知識は豊富だったはずですからね。


  ☆


穴観音の溝は、かなり高度な技術で均一に彫られているように見えますから、ひょっとすると近世に彫られたのかもしれません。
しかしこのような発想や技術は、古いアジアの巨石文化、岩屋文化に源があると考えるのは飛躍しすぎでしょうか?

溝を掘るくらい、誰でも自然発生的に思いつくはずだよ。巨石文化の伝播なんて大げさな話とは思えないな・・・こんな意見もあると思います。しかし、雨樋は他にもありました。

岡山県は白石島、かつて弘法大師が修行したといわれる、開龍寺です。


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お堂がはめ込まれる前は、古代の巨石文化の一種だと密かに思っているのですが、それはともかく、お堂の屋根のすぐ上、つまり天井石の下部をご覧ください。
コケが生えているのは、溝が彫られて湿り気が多いからだと推測します。つまり、ここでは裏側に雨樋を線刻し、そこで水を落として、少なくとも岩屋の奥へは雨水が回らないようにしているのではないのでしょうか?


また、高徳寺のひさしは、正面の一部分だけ、三角形の大きな雨樋の溝が彫られています。


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推論に推論を重ねているので、あまり自信はありませんが、おそらく岩屋の雨樋にも、いろいろな文化があると思います。


  ☆


「お家で過ごそう」だったのに、その家に雨漏りがしたらシャレになりません。
ひさしの下に住んだり、祭祀を行う昔の人々にとっては、雨天時も乾燥した岩屋をキープすることは極めて大切なことだったでしょうね。
下手をすると命の火まで消えてしまいます。死活問題です。

最も合理的なのは、軒先を低くして、雨が内側に伝わらないようにすることでしょう。
長崎県佐世保市の岩下洞穴は縄文早期からの遺跡ですが、ここは見事な角度ですね。
溝を彫らなくとも、雨水は内部に伝わり落ちる事がありません。


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しかも、これだけ天井が高ければ、大きな焚火でも煙が岩屋内に充満しないと思います。なかなか快適ですね。


  ☆


前の記事で触れた、広島県福山市の御領山です。

シーギリヤや宮島の弥山と同じように、巨石文化三点セットがそろっています。

まずは岩のすき間。

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平らな巨石。

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張り出したひさし。

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この山麓には、多量の縄文土器や打製石斧、石鏃、石器の材料となる安山岩の破片等が見つかった縄文遺跡、そして全国屈指の弥生大集落があるため、ひょっとすると頂上巨石群は古代信仰の聖地だったのではないかという説がある所です。

船を線刻した、弥生時代後期後半(2~3世紀・約1800年前)の土器も発見されました。


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 (「ときめき夢見びと」ブログ様より)


船はゴンドラ形の準構造船で、船首に竪板(波よけ板)、船尾に旗竿と旗があるそうです。
縄文人は小さなカヌーで日本海を行き来しました。準構造船なら、外国からやってきた大型船かもしれません。


  ☆


一方、シーギリヤの岩山に王宮を作ったカッサパ一世は、父を殺して王位に就きました。
しかし、兄カッサパからの難を逃れていた弟のモッガラーナは、亡命先の南インドから軍隊を引き連れ兄と戦います。
最後はカッサパ一世が喉を掻き切り自害しました。
五世紀のころの話です。

亡命するくらいですから、おそらくシーギリヤは、古くから南インド巨石文化(South Indian Megalith culture)の影響を受けていたはずです。

南インド巨石文化は、巨石墓を指標としますが、使用される石材やその配置、埋葬主体の構築方法・形態などに多様性がみられるとされます。


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お借りしたポスターの写真は、ちょうど南インド巨石文化の遺跡です。


正直言って雲をつかむような推理ですが、このような古い巨石信仰・巨石文化の影響を受けた文化が、東アジアにも伝播した可能性はあると思います。
古代の船に乗った人々によって、広島県福山市をはじめ、各地に運ばれたかもしれません。

えっ、南インド巨石文化なんて日本とまったく関係がないはずだって?

バナナ型神話について最初に述べました。
このような広範囲に分布する神話は、現在のインターネット経由のように、ただ話や情報だけが送られてきたわけではありません。その文化を携えて、日本列島に上陸した集団があったはずです。バナナ型神話を携えて日本列島にやってきた南方の人々が、巨石信仰を持っていたとしても不思議はありません。

はてさて、真実はどこにあるのでしょうね(^^♪


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コメント

No title

こんにちは。。。
ひさし
「将棋くずし」で中途半端に残った駒みたい・・・
この状態で何百年、何千年・・・場所によっては何万年もバランス保っているのだから
すごいというより逆に面白いですね~
お邪魔いたしました。。。

Re: No title

ViVid Mr.K 様

地震もあったでしょうに、微妙なバランスがよくも崩れなかったと思いますね(^^♪
ひょっとすると、意外に超合金のねじで止めてあったりして・・・

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sazanamijiro

Author:sazanamijiro
古代史マニアですが、特に自然神道期の多様な信仰遺跡に魅せられています。

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